朝野真吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 08:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動朝野 真吉(あさの の まよし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は貞吉とも記される。姓は宿禰のち朝臣。参議・朝野鹿取の近親(子息か)。
経歴
その後散位となるが、承和9年(842年)7月に発生した承和の変に際して朝廷が山城国の五道を閉鎖した際、真吉は山埼橋に派遣されてその守護を担当した[1]。また、同年12月には参議・朝野鹿取とその子女19人が宿禰姓から朝臣姓に改姓しているが、この際に真吉も改姓したと想定される。承和10年(843年)6月に鹿取が薨去すると、9月に真吉は中務少輔に任ぜられ京官に復す。
天安元年(857年)備中介に任ぜられると、貞観2年(860年)備中守に昇格し、貞観4年(862年)には23年ぶりに昇叙され従五位上となる。その後散位となるが、貞観12年(870年)加賀守と文徳朝末から清和朝にかけて地方官を歴任した。
官歴
『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 承和6年(839年) 正月7日:従五位下。正月11日:美作介
- 承和9年(842年) 12月13日:宿禰姓から朝臣姓に改姓
- 承和10年(843年) 9月16日:中務少輔
- 天安元年(857年) 8月25日:備中介
- 貞観2年(860年) 正月16日:備中守
- 貞観4年(862年) 正月7日:従五位上
- 貞観12年(870年) 正月25日:加賀守
脚注
- ^ 『続日本後紀』承和9年7月17日条
出典
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