晋州城攻略後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:34 UTC 版)
晋州城を攻略した日本軍は直ちに全羅道へ進撃し、7月5日には求礼、7日には谷城へ進出した。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した。攻略戦の最中、日本軍は恒久的在陣のため朝鮮半島南部に拠点の築城が開始され、晋州城は撤退時に破却された。 『問註所家譜』により文禄2年(1593年)9月2日、問註所統景、問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって明の劉綎と晋州城外西南方二十里の河東郡に遭遇し以下数百兵は戦死した、宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る。
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