新留守・本留守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 20:00 UTC 版)
文治5年(1189年)源頼朝の命により地頭の隠匿する墾田地に対し検地を行い、正治2年(1200年)には留守所に対し地頭の所務について藤原秀衡、泰衡の旧規則に従うよう命じられるなど国司として活動していた。当時は新留守、本留守の2ヶ所が存在し新田目城の留守氏は本留守といい代々吹浦一宮大物忌神社の神主家となった家ともいわれる。新留守は高瀬村北目楯を拠点とし、北目地頭新留守殿として承久2年(1220)鎌倉幕府より出羽国両所宮の修造を命じられている。また、両家ともに国司として吹浦大物忌神社の神事に勤仕している。新留守の子孫は菅原氏を称した。
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