文訪蘇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/14 22:54 UTC 版)
文訪蘇 | |
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プロフィール | |
出生: | 1892年(光緒18年)[1][2] |
死去: | 没年不明(1940年時点では存命) |
出身地: | 出身地不明[注 1] |
職業: | 官僚・学者・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 文訪蘇 |
簡体字: | 文访苏 |
拼音: | Wén Fǎng sū |
ラテン字: | Wen Fang-su |
和名表記: | ぶん ほうそ |
発音転記: | ウェン・ファンスー |
文 訪蘇(ぶん ほうそ、1892年〈清光緒18年〉– 没年不明)は、中華民国の官僚・学者・ジャーナリスト。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。学者やジャーナリストとしての経歴もあるが、出身地や没年など不詳な点が多い人物である。
事績
日本へ留学し、明治大学法学部を卒業したという[注 2]。また、1929年(昭和4年)には横浜YMCA会員となったことが確認できる[3]。
帰国後の文訪蘇は冀察政務委員会参議、天津市公署社会局局長、駐日大使館秘書を歴任している[2]。文筆・評論を得意とし、北京の新聞で社論を起草したこともあったという[1]。また1938年(民国27年)頃には、北京大学で古文や金石学の教鞭をとったこともあり、書家の金藤含翠は文に師事した[4]。
王克敏らが中華民国臨時政府を創設すると、文訪蘇もこれに参加した。1938年5月26日、教育部(総長:湯爾和)で文化局局長に任命されたが[5][6]、翌1939年(民国28年)1月6日に早くも辞職している[7]。臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し華北政務委員会に改組されると、文は建設総署(督弁:殷同)で秘書に任命された[8][2][注 3]。これ以外に、1938年に発足した東亜文化協議会で理事に就任している[9]。
1941年以降における文訪蘇の動向は不詳となっている。
注釈
出典
- ^ a b 橋川編(1940)、67頁。
- ^ a b c 満蒙資料協会(1942)、665頁。
- ^ 『開拓者』24巻11号、昭和4年11月号、日本基督教青年会同盟、43頁。
- ^ 広論社(1984)、56頁。
- ^ 臨時政府令、令字第205号、民国27年5月26日(『政府公報』第19号、民国27年5月30日、臨時政府行政委員会公報処、3頁)。
- ^ 安藤徳器「北支通信 -北京の巻-」『大陸』昭和18年9月号、改造社、356頁。
- ^ 臨時政府令、令字第314号、民国28年1月6日(『政府公報』第52号、民国28年1月11日、臨時政府行政委員会情報処公報室、1頁)。
- ^ 満蒙資料協会編(1941)、934頁。
- ^ 『北支における文教の現状』興亜院華北連絡部、1941年、147-149頁。
参考文献
- 文訪蘇のページへのリンク