故・菊池武時に戦功を譲る
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「楠木正成」の記事における「故・菊池武時に戦功を譲る」の解説
『菊池武朝申状』(弘和4年(1384年)7月日)によれば、武朝の曽祖父の菊池武時が元弘の乱で戦死した後、その論功行賞の場で、正成は自らの功績を誇らず、他人である武時の功を強く推薦したという。曰く、元弘の乱では忠烈の者も労功の輩も多いが、みな生き長らえた者である。しかし、武時入道ひとりは勅諚によって落命した者である。忠厚第一とするのは当然ではないか、と論じた。そのため、正成の主張を後醍醐天皇は聴き入れたという。 上の「忠厚」という語については、平田俊春「楠公の戦死に関する学説について」(1940年)は「忠義」の意に解しているが、今井正之助「解説 正成討死をめぐる諸説と正成の出自」(2007年)は、『太平記』等の当時の諸書での用例を考えるなら、ここでいう「忠厚」とは「忠功」つまり(戦での)「功績」のことであろうと指摘している。
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