張濬とは? わかりやすく解説

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張濬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/30 08:16 UTC 版)

張 濬(ちょう しゅん、生年不詳 - 904年)は、唐代官僚政治家は禹川[1][2]本貫瀛州河間県

経歴

才気に優れ、独立心が旺盛で、経書史書を渉猟し、大言壮語を好んだので、士友に排斥されるところとなった。憤って志を得ず、農民の衣服を身に着けて、金鳳山に隠棲し、鬼谷子の術を学び、臨機応変の策によって貴人に仕えたいと望んだ。乾符年間、枢密使の楊復恭の推薦を受けて、太常寺博士となり、度支員外郎に累進した[1][2]

広明元年12月(881年1月)、黄巣の反乱軍が関中に迫ると、張濬は病と称して辞職を求め、一族を引き連れて商州に避難した。黄巣が長安を占領すると、僖宗は逃亡したが、道中で食事に困り、漢陰県令の李康の献上した餅でようやく軍士を食わせることができた。僖宗は李康のもてなしが張濬の発案であることを知り、行在に召し出し、張濬は兵部郎中に任じられた。ほどなく諫議大夫となった[1][2]

中和2年(882年)、宰相の王鐸が諸道行営都統として滑州に駐屯すると、張濬はその下で都統判官をつとめた。ときに平盧軍留後の王敬武が黄巣についていたため、張濬は王鐸の命を受けて王敬武の説得にあたることになった。張濬は王敬武に面会するや、君臣の礼をわきまえないといって王敬武を譴責し、王敬武を恐縮させた。張濬は平盧軍の諸将を鞠場に集めて、順逆と利害を説いた。平盧軍の諸将が張濬を支持したため、王敬武は張濬に従って長安奪回の援軍を出動させた。光啓元年(885年)、僖宗が長安に帰ると、張濬は戸部侍郎に累進した[3][4]。光啓3年(887年)、僖宗が興元府に避難すると、張濬は兵部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[5][6][7]

張濬ははじめ楊復恭の引き立てにより官歴を重ねたが、楊復恭が権勢を失うと、田令孜に頼るようになり、宰相に上ると楊復恭にかえって冷淡になった。楊復恭が田令孜に代わって中尉となると、張濬は宰相からひとたび罷免された。文徳元年(888年)、昭宗が即位すると、張濬は再び宰相となった。昭宗の諮問に答えて、軍事力の強化を求めた[8][9]。中書侍郎・兵部尚書をつとめ[7]開府儀同三司の位を受けた[10]龍紀元年(889年)、集賢院大学士・判戸部事をつとめ、河間郡侯に封じられた[11]

宣武軍節度使の朱全忠・盧龍軍節度使の李匡威雲州防禦使の赫連鐸らが河東節度使の李克用の討伐を求めると、張濬は朱全忠について、李克用を討ちたいと上奏した。大順元年(890年)、張濬は河東行営兵馬都招討制置宣撫使となって、5万騎を動員して長安を出立したが、陰地で李存孝に敗れて逃走した。敗戦の罪を問われて検校兵部尚書・鄂州刺史・武昌軍節度・鄂岳観察等使として出された。ほどなくさらに連州刺史に左遷されることとなったが、張濬は華州にとどまって韓建に庇護された[12][13]

乾寧2年(895年)、王行瑜李茂貞・韓建の3節度使が長安に乱入し、宰相の韋昭度と李磎を殺害すると、張濬は長安に召還されて、兵部尚書となり、諸道租庸使を領知した。乾寧3年(896年)、昭宗が華州に避難すると、張濬は諸道租庸使から退任して、尚書右僕射をつとめた。引退を願い出て、尚書左僕射として致仕した。洛陽に帰り、長水県の別荘に隠居した。隠居の身でありながら、朝廷に利害があれば、必ず上疏して進言した。光化3年(900年)、徳王李裕が即位すると、張濬は節度使たちに信書を送って昭宗の復位を図るよう求めた。天復3年(903年)、王師範が青州で起兵すると、張濬を謀主としようとした。その計画は実施されなかったが、朱全忠に漏れた。12月30日904年1月20日)夜、張濬は朱全忠の命を受けた牙将の楊麟の精兵50人に襲撃されて殺害された[14][15]

家族

  • 祖父:張仲素(中書舎人)
  • 父:張鐐[1]
  • 次男:張格(前蜀王建の宰相)[14]

脚注

  1. ^ a b c d 旧唐書 1975, p. 4656.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 5411.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4656–4657.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 5411–5412.
  5. ^ 旧唐書 1975, pp. 726–727.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 280.
  7. ^ a b 新唐書 1975, p. 1747.
  8. ^ 旧唐書 1975, p. 4657.
  9. ^ 新唐書 1975, p. 5412.
  10. ^ 旧唐書 1975, p. 729.
  11. ^ 旧唐書 1975, p. 738.
  12. ^ 旧唐書 1975, pp. 4657–4661.
  13. ^ 新唐書 1975, pp. 5412–5413.
  14. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4661.
  15. ^ 新唐書 1975, pp. 5413–5414.

伝記資料

参考文献




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