張奧偉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/31 06:49 UTC 版)
The Honourable 張奧偉爵士 GBE QC SC JP 爵士 |
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Sir Oswald Victor Cheung | |
Sir "Ossie" Cheung
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![]() 立法局首席華人非官守議員 |
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任期 1978–1981 |
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任命者 | クロフォード・マレー・マクレホース |
前任者 | 鍾士元爵士 |
後任者 | 方心譲 |
![]() 立法局首席非官守議員 |
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任期 1978–1981 |
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前任者 | 鍾士元爵士 |
後任者 | サー・ロジャー・ロボ |
個人情報 | |
生誕 | 1922年1月22日![]() |
死没 | 2003年12月10日 (81歳没)![]() |
死因 | 火傷による合併症 |
配偶者 | 鄭宝蓮(Pauline Cheng) |
教育 | 抜萃男書院 |
出身校 | 香港大学 オックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジ |
職業 | バリスター |
張 奧偉爵士 CBE,QC,SC,JP(ちょう おうい、英語:Sir Oswald Victor Cheung、1922年1月22日—2003年12月10日)は、香港の法律家、政治家。張奧偉は香港で初めての華人勅選弁護士(Queen's Counsel、香港返還後は資深大律師、英語: Senior Counsel)であり、華人として初の香港ジョッキークラブ主席である。1970年代には立法局首席非官守議員および行政局議員を務めたほか、香港重光直後の1946年には抜萃男書院の校長代理を務めた。張奧偉は、余若薇、吳靄儀、陳景生ら今日の香港法律界の多くのエリートのメンターであり、「香港法律界のゴッドファーザー」と呼ばれた。
生涯
1922年、香港に生まれる。1929年から1938年にかけて抜萃男書院(小学および中学)に学び[1]、1938年から1941年にかけて香港大学にて数学と化学を学んだ[1]。モリソン・ホールに寄宿した。第二次世界大戦中は澳門、広州湾に移り[2]、英軍服務団(英語: British Army Aid Group)に加入、イギリス軍に協力して華南における日本軍の活動を監視し、1942年にはイギリスの駐印連絡官となった[3]。
戦後の1947年から1949年には奨学金を得てイギリス・オックスフォード大学へ留学し[1]、1946年から1950年にかけてリンカーン法曹院にてバリスターの資格を得た[1]。1951年には香港にて大律師としての執業資格を得、1965年には勅選弁護士となった。1952年に香港大律師公会の名誉書記となり、1966年に同公会主席首席、1996年には香港大律師公会永久会員となった。1987年以降はリンカーン法曹院幹部を務めた。
公生活
張は戦後の長年にわたり、公職においても多大な貢献を果たした。香港政庁の委員会に数多く参加し、専門家として最高法院規則委員会(英語: Supreme Court Rules Committee)委員を務めたほか(1960年~1970年)、暴力傷亡賠償委員会(英語: Criminal Injuries Compensation Board)および執法傷亡賠償委員会(英語: Law Enforcement Injuries Compensation Board)主席を務めた。政府外の活動としては、キリスト教児童基金香港政策委員会委員を務めたほか(1960年~1964年)、童膳会(英語: Children's Meals Society)、 警察子女教育信託基金(英語: Police Children's Education Trust)、保良局、そして戴麟趾爵士康楽基金投資諮詢委員会(英語: Sir David Trench Recreation Fund Investment Advisory Committee)などで積極的に活動した[4]。
政庁関連の役職として、交通諮詢委員会、経済検討委員会、第5次統営業顧問委員会、漁業発展貸款基金顧問委員会で委員を務めた。また、稅務上訴委員会では理事および審査委員として活動した[4]。
また、大学及理工教育資助委員会(英語: University and Polytechnics Grants Committee)の委員も務めた。1970年から1981年まで立法局議員を務め、1974年から1986年まで行政局非官守議員を務めた。1972年に大英帝国勲章(OBE)を受章し、1987年にはナイトの称号を授与された[4]。
家庭・私生活
張奧偉の父は香港の名士、張裕沛(Cheung U Pui)である[5]。裕沛は著名な買辦張祥芝(Cheung Tseung Che)の子であり、Cheung U Kowの弟[6][7]である。母エリザベス・エリス(Elizabeth Ellis)はサー・エリス・カドゥーリーの娘である[5]。弟の貫天(Donald Quentin Cheung)もバリスターであり、香港華懋集團の法律事務を請け負い、龔如心遺産案などを担当した[8]。貫天の子雁坤(Anthony Cheung)は、王德輝、龔如心の義兄弟であった。奧偉の妹張慧雲(Vivian Cheung)は香港保衛戦では香港義勇軍の従軍看護師を務め、後に長きにわたり抜萃男書院の女舍監(matron)を務めた。妻の鄭宝蓮は1960年代に香港政庁の政務官となり、1996年の引退前は法援署署長であった。二人の間には潤坤(Rayner Cheung)という一人息子がいる。
奧偉は競馬が好きで、夏佳理とともに競走馬を育て、香港馬王となったリヴァーヴァードン(翠河)は彼らの共同所有であった。また中国書画のコレクターでもあり、多くの貴重な名画を所有していた。
2003年9月23日午後、張奧偉は跑馬地藍塘道にある自宅で葉巻を吸う際、マッチの火が着ていたシルクのパジャマに引火して火傷を負った。植皮手術後に真菌感染から合併症を起こし、同年12月10日早朝、瑪麗医院の集中治療室にて世を去った。享年81歲[9]。
栄典
命名された事物
- 明愛張奧偉國際賓館:香港田湾
- 張奧偉盃:かつて香港ジョッキークラブ主席賽馬日の盃賽レースのひとつであった。2018/2019年度以降行われていない。
参考文献
- ^ a b c d Kevin Sinclair, ed (1988). Who's who in Hong Kong (4 ed.). Who's Who in Hong Kong Ltd.、Asianet Information Services Ltd.. p. 70
- ^ 104th Congregation (1979)- The Honorary Graduates- The Hon Oswald Victor CHEUNG, The University of Hong Kong アーカイブ 2017年4月6日 - ウェイバックマシン(英文)
- ^ “中英談判為港人爭權益”. 蘋果日報. (2003年12月11日). オリジナルの2017年4月6日時点におけるアーカイブ。 2017年4月6日閲覧。
- ^ a b c 104th Congregation (1979) – The Hon Oswald Victor CHEUNG, Doctor of Laws, University of Hong Kong, 1979
- ^ a b 陳煒舜 (2014年6月30日). “男拔萃的混血校長們” (中国語). 大公報. オリジナルの2014年7月13日時点におけるアーカイブ。 2014年7月1日閲覧。
- ^ “53 Caine Road - Forest Lodge”. 2020年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月2日閲覧。
- ^ Arnold Wright, ed (1908). Twentieth Century Impressions of Hongkong, Shanghai, and other Treaty Ports of China:見MR. CHEUNG TSEUNG CHE一段
- ^ “動機惹疑 強調分毫不收” (中国語). 東方日報 (香港). (2013年3月25日). オリジナルの2020年6月5日時点におけるアーカイブ。 2015年4月2日閲覧。
- ^ “律政界猛人張奧偉燒傷留醫”. Apple Daily 蘋果日報. 2019年7月26日閲覧。
- ^ “3166號公告 太平紳士條例 (第510章)”. 香港特別行政區政府憲報 (香港特別行政區政府) 7 (20). (2003-05-16) .
関連項目
- 首席華人非官守議員
- 首席非官守議員
- 王立香港連隊(義勇軍)
- 英軍服務団
議会 | ||
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先代 鍾士元 |
立法局首席華人非官守議員 1978–1981 |
次代 方心譲 |
立法局首席非官守議員 1978–1981 |
次代 ロジャー・ロボ |
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タイトル | ||
先代 サー・マイケル・サンドバーグ男爵 |
王立香港ジョッキークラブ主席 1986–1989 |
次代 サー・ゴードン・マクヒニー |
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