廃后とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 23:15 UTC 版)
建武14年(38年)に郭況が城門校尉に昇進した頃から、郭聖通は光武帝からの寵愛が衰えたため、しばしば恨みを抱くようになる。そのため建武17年(41年)、郭聖通は皇后から廃され、陰麗華に取って代わられた。この時、光武帝が三公に詔を下して言うには、「郭皇后は恨みを抱き、教令に違背しており、また、その他の子(異腹の子)を教え諭し、従わせることができなかった(「不能撫循它子、訓長異室」)。それは、宮中にあたかも鷹や隼(「鷹鸇」)が在るかのようであった」とのことである。 このとき、劉彊も自ら望んで皇太子を廃された。そして、郭聖通の2番目の子である劉輔が中山王に封じられたことにより(このとき、常山郡が中山国と改められている)、郭聖通は中山王太后となっている。ただし郭氏全体としては、郭聖通の廃后によっても失脚することはなかった。むしろ郭況が大国の陽安侯に封じられたことを筆頭に、かえってその地位を高める結果となった。建武20年(44年)、劉輔が沛王に転じたことに伴い、郭聖通は沛王太后となった。 建武28年(52年)、郭聖通は死去した。北邙山に葬られている。光武帝は郭聖通を憐れむとして、郭況の子である郭璜に淯陽公主を娶わせ、郎官として登用した。
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