平海丘氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 平海丘氏の意味・解説 

平海丘氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/16 03:12 UTC 版)

平海丘氏
朝鮮
領地 蔚珍郡
家祖 丘大林
著名な人物 丘徳煥

平海丘氏(ピョンヘグし、평해구씨)は、朝鮮氏族の一つ。本貫慶尚北道蔚珍郡平海邑である。2015年調査では15,297人である[1]

歴史

始祖は、中国将軍丘大林である。丘大林は、663年に唐から使臣として日本に行っている途中に日本海で難破、慶尚北道月松亭付近に漂着、海岸の南側の美浦に定住した。丘大林の住んでいたところを、丘尾津と呼ぶ。始祖の墓地は、慶尚北道蔚珍郡箕城面黄堡里に所在しており、子孫は、毎年旧暦3月15日に始祖の墓で春享祭を奉行している。

丘大林以降の世系は失伝し、高麗恭愍王と李芳実と一緒に、紅巾の乱を討伐して功臣に策勲されて民部典書に上がっ丘宣赫を一世祖とする。丘宣赫の息子丘天雨が高麗恭譲王時の版図判書を務め、丘天雨の息子丘春浩、丘春景、丘春瑞、丘春甫4兄弟がすべて官職を務めて栄えた。

丘春浩の孫丘従直が1444年に文科に合格して、工曹判書と左賛成を務めた。丘従直の息子丘達孫は、1465年に文科に合格して直提学を務めており、丘達孫の弟丘夙孫も1474年に文科に合格して吏曹佐郎を務めた。

丘春甫の孫丘致崑は1464年に文科に合格して左部承旨・漢城府右尹を経て、大司憲になった。丘致崑の弟丘致岡も1453年に文科に合格して司憲府執義を務めた。丘致岡の息子丘永安は1469年に生員試と進士試に合格したが、官職に進まなかった[2]

黄氏の記録との相違

平海丘氏側では丘大林が朝鮮半島に来たのは663年唐から日本に向かう途中としているが、平海黄氏の記録は黄洛と丘大林が一緒に西暦28年(中国後漢時代)に交阯郡(ハノイ)に行く途中だとしている。

集姓村

人物

  • 丘徳煥 - 医師、国会議員。
  • 丘秉朔 - 高麗大学法学専門大学院名誉教授、アジア工法研究所理事長。
  • 丘仁煥 - 小説家。

人口

  • 1985年2,608世帯10,560人
  • 2000年4,128世帯13,176人
  • 2015年15,297人[1]

脚注

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平海丘氏」の関連用語

平海丘氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平海丘氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの平海丘氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS