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島田政辰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/05 06:15 UTC 版)

 
島田 政辰
時代 江戸時代
生誕 寛文2年(1662年)
死没 享保8年2月7日1723年3月13日)
改名 元覚(法名)
別名 市十郎、久太郎、治太郎、十兵衛(通称)
墓所 埼玉県坂戸市仲町の永源寺
官位 従五位下、弾正忠、佐渡守
幕府 江戸幕府 小姓組番士、進物番、桐間番、小姓、中奥番士、徒頭書院番組頭、普請奉行旗奉行留守居
主君 家綱
氏族 坂戸島田氏
父母 父:島田利由、母:島田利香の娘
兄弟 政辰、女(島田政広妻)、女(加藤明教妻)、常英、利章
先妻:北条氏平の娘
後妻:江馬成次の娘
島田正之、養女(富永記豊妻)
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島田 政辰(しまだ まさたつ)は江戸時代初期の武士旗本)。

生涯

延宝2年(1674年)7月18日、13歳の時に初めて将軍徳川家綱に拝謁し、天和3年(1683年)9月25日には小姓組の番士となる[1]

元禄元年(1688年)3月28日に進物番元禄3年(1690年)5月18日には桐間番を務めた後、6月28日に小姓、8月18日に中奥番士となる。元禄14年(1701年)8月11日に徒頭に任命され、同年12月18日に布衣の着用を許可される。また、同年12月22日に200石を加増され、翌元禄15年(1702年)に領地を賜り、下野国内で500石を知行された[1]

宝永元年(1704年)8月11日には書院番組頭に任命され、宝永2年(1705年)12月23日に父の遺跡を継ぎ、武蔵国入間郡上野国邑楽郡山田郡下野国梁田郡にて2500石を知行(前に与えられた所領は収公された)[1]

宝永5年(1708年)6月28日に普請奉行に転任し、宝永7年(1710年)12月18日に従五位下佐渡守に叙任された。享保4年(1719年)1月11日に旗奉行、享保6年(1721年)5月20日に留守居となった[1]

享保8年(1723年)2月7日、62歳で死去[1]

脚注

  1. ^ a b c d e 寛政重修諸家譜 第2輯』国民図書、1923年、p.559。



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