島丹誠堂図案社とは? わかりやすく解説

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島丹誠堂図案社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/18 22:02 UTC 版)

島丹誠堂図案社(しまたんせいどうずあんしゃ)は、東京都中央区銀座にあったグラフィックデザイン企業。日本初の図案社といわれ[1]、戦前の新聞や書籍など多くの広告図案を手掛けた。

沿革

1902年明治35年)に、島欽一が銀座・瀧山町にあった東京朝日新聞本社の隣で創業した。

当時の銀座は、東京五大新聞(東京日日新聞報知新聞時事新報國民新聞東京朝日新聞)が進出し、1883年10月の「時事新報」で福沢諭吉が新聞広告の有用性を説いたことで、弘報堂、廣告社、時事通信社などの広告代理店も多数開業した。そのような中で島丹誠堂が広告図案の商売を始めると、これらの図案作成を一手に引き受けることになり、新聞社のほか大手雑誌社、一流化粧品メーカー、製薬会社など、300件の固定客を抱えた[2]

大正期には数寄屋橋前(現、銀座ソニーパークの一角)に移り[3]、1930年(昭和5年)には同地に社屋を建設した[4][5]

島丹誠堂が扱う広告図案は、新聞や書籍などの口絵・広告、チラシ広告、カタログやポスターの図案、企業や店舗の看板・ロゴマークなど多岐にわたった。1935年当時の就職誌では「(図案工について)数多の種類に分かれるが、書家でもなく看板屋でもない職業で、文案家に対抗する独自の書工である。東京では京橋の島丹誠堂が有名だが、その他に何々図案社と言った会社が数え切れない程ある。」と紹介されている[6]

戦後[7]銀座中央通りの白牡丹ビルに移転した[8]

1990年頃、閉店[要出典]

歴代社長

  • 1902年- 島欽一
  • 1941年- 島眞一(欽一の二男、東京美術学校図案科卒)
  • 1983年- 島元次(欽一の三男、東京美術学校図案科卒)

主な関係者

関連文献

  • 瀬田兼丸『遠ざかる大正私の銀座 広告代理業の草分け弘報堂の回想とともに』新泉社、1986年10月、163,290頁。 [3]

脚注

  1. ^ a b 島州一”. 東文研アーカイブデータベース. 国立文化財機構東京文化財研究所. 2025年2月16日閲覧。
  2. ^ 「腕一本で広告図案界に新天地を劃 した島欽一君」『實業之日本』第34巻第16号、実業之日本社、1931年8月15日、65-67頁。 
  3. ^ a b 遠ざかる大正私の銀座 - 昭和館デジタルアーカイブ(目次に「ソニー通りと図案の島丹誠堂」という章がある)
  4. ^ 高倉嘉夫「日比谷方面より数寄屋橋を望む」『大東京写真帖』方面、1930年3月25日、60頁。 
  5. ^ 『震災復興<大銀座>の街並みから』銀座文化史学会、1995年12月、88頁。 
  6. ^ 『最新就職読本』山陽社、1935年12月17日、140頁。 
  7. ^ 『銀座 歴史散歩地図-明治・大正・昭和』草思社、2015年7月30日、75,85頁。 
  8. ^ 藤井麟太郎『日本紳士録 第52版交詢社、1960年、B-82頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1086109/1/453?keyword=%E5%B3%B6%E4%B8%B9%E8%AA%A0%E5%A0%82%E5%9B%B3%E6%A1%88%E7%A4%BE (広告ページの住所表示。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション



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