島丹誠堂図案社
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島丹誠堂図案社(しまたんせいどうずあんしゃ)は、東京都中央区銀座にあったグラフィックデザイン企業。日本初の図案社といわれ[1]、戦前の新聞や書籍など多くの広告図案を手掛けた。
沿革
1902年(明治35年)に、島欽一が銀座・瀧山町にあった東京朝日新聞本社の隣で創業した。
当時の銀座は、東京五大新聞(東京日日新聞、報知新聞、時事新報、國民新聞、東京朝日新聞)が進出し、1883年10月の「時事新報」で福沢諭吉が新聞広告の有用性を説いたことで、弘報堂、廣告社、時事通信社などの広告代理店も多数開業した。そのような中で島丹誠堂が広告図案の商売を始めると、これらの図案作成を一手に引き受けることになり、新聞社のほか大手雑誌社、一流化粧品メーカー、製薬会社など、300件の固定客を抱えた[2]。
大正期には数寄屋橋前(現、銀座ソニーパークの一角)に移り[3]、1930年(昭和5年)には同地に社屋を建設した[4][5]。
島丹誠堂が扱う広告図案は、新聞や書籍などの口絵・広告、チラシ広告、カタログやポスターの図案、企業や店舗の看板・ロゴマークなど多岐にわたった。1935年当時の就職誌では「(図案工について)数多の種類に分かれるが、書家でもなく看板屋でもない職業で、文案家に対抗する独自の書工である。東京では京橋の島丹誠堂が有名だが、その他に何々図案社と言った会社が数え切れない程ある。」と紹介されている[6]。
1990年頃、閉店[要出典]。
歴代社長
主な関係者
- 島州一[1]
- 1972年にニクソン大統領と周恩来首相の会談の様子を、椅子と布団を使ったシルクスクリーンで表現し、第7回ジャパン・アート・フェスティバルで大賞を受賞した。
- 廣瀬貫川
- 松岡栄三
- 1946年に独立してマツオカスタヂオ(グラフィックデザインの企画製作会社)を設立、東京商業美術協同組合理事を務める。
- 鈴木利男
- 1953年にデザイナーとして独立、鈴木画房(後に株式会社S.D.G.に改称、2010年解散)を開業した。
関連文献
- 瀬田兼丸『遠ざかる大正私の銀座 広告代理業の草分け弘報堂の回想とともに』新泉社、1986年10月、163,290頁。[3]
脚注
- ^ a b “島州一”. 東文研アーカイブデータベース. 国立文化財機構東京文化財研究所. 2025年2月16日閲覧。
- ^ 「腕一本で広告図案界に新天地を劃 した島欽一君」『實業之日本』第34巻第16号、実業之日本社、1931年8月15日、65-67頁。
- ^ a b 遠ざかる大正私の銀座 - 昭和館デジタルアーカイブ(目次に「ソニー通りと図案の島丹誠堂」という章がある)
- ^ 高倉嘉夫「日比谷方面より数寄屋橋を望む」『大東京写真帖』方面、1930年3月25日、60頁。
- ^ 『震災復興<大銀座>の街並みから』銀座文化史学会、1995年12月、88頁。
- ^ 『最新就職読本』山陽社、1935年12月17日、140頁。
- ^ 『銀座 歴史散歩地図-明治・大正・昭和』草思社、2015年7月30日、75,85頁。
- ^ 藤井麟太郎『日本紳士録 第52版』交詢社、1960年、B-82頁 。(広告ページの住所表示。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
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