山鹿送り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
山鹿素行は独自の軍学山鹿流を興し、様々な大名に兵学を教えていたが、著書の一つ「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、播州赤穂にお預かりになった。 22歳の内蔵助は山鹿素行を赤穂まで護送する任務にあたったが、山鹿素行の門下の者がこれに反発して襲撃してくる。しかし内蔵助は門下の者達に、「ここで素行を奪い返すは幕府に弓を引くも同然」と道理を説いて説得し、無事山鹿素行を赤穂まで連れてくるのだった。 講談ではこの後、内蔵助は山鹿素行から軍学を学ぶ事になるとしている。
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