山田穣 (貴族院議員)とは? わかりやすく解説

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山田穣 (貴族院議員)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 00:51 UTC 版)

山田 穣(やまだ ゆたか[1] / みのる[2]1842年天保13年7月[2][3])- 1892年明治25年)5月6日[2])は、明治期の地主政治家貴族院多額納税者議員。旧姓・蒲、幼名・幸輔[1]

経歴

越前国今立郡東庄境村(福井県今立郡南中山村、粟田部町、今立町を経て現越前市)で素封家・蒲家に生まれ、文久2年(1862年)越前国坂井郡一本田村(坂井郡丸岡町を経て現坂井市)の同国屈指の豪農・山田穆斎の養子となる[1][3]

明治5年(1872年)足羽県坂井郡副長に就任し、敦賀県第57大区区長、第15大区副区長兼学区取締を務めた[1][3]。1875年(明治8年)地租改正の総代人となりその事務に従事した[3]

1880年(明治13年)石川県会議員に当選し、福井置県後は福井県会議員に選出され同議長、同常置委員も務めた[1][2][3]。1884年(明治17年)八ツ口村外12ヵ村戸長に就任し[1]高椋村会議員も務めた[2]。1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ[4]、在任中に死去した[1][2][5]

親族

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 『福井県大百科事典』1014頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』226頁。
  3. ^ a b c d e 『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第一編』446-449頁。
  4. ^ 『官報』第2179号、明治23年10月2日。
  5. ^ 『官報』第2657号、明治25年5月10日。

参考文献

  • 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 大久保利夫『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第一編』六法館、1890年。



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