山本宗覚とは? わかりやすく解説

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山本宗覚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/24 01:49 UTC 版)

 
山本宗覚
時代 戦国時代江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永21年(1644年
改名 正倶(正倫)→宗覚
別名 三郎右衛門(通称)、重忠
戒名 宗覚
官位 中務大輔
幕府 江戸幕府
主君 細川忠興
熊本藩
氏族 山本氏
父母 八郎
三四郎
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山本 宗覚(やまもと そうかく、不明 - 1644年)は、 戦国時代から江戸時代前期の武士猿楽師山本正倶(正倫)山本中務大輔重忠とも。

概要

熊本藩に伝わる『能口伝之聞書』には「若狭衆、観世小次郎弟子、山本中務云」とあり、若狭国出身で観世小次郎(観世元頼、観世長俊の嫡子)に師事していたことがわかる[1]

綿考輯録』によると、元亀4年(1573年)の第二次淀古城の戦いにて初めて細川忠興に仕え、六つ鉄線紋を賜ったという。丹後国入国の際には二百石、関ヶ原の戦いの後には四百石に加増された。元和5年(1619年)に忠興がキリシタンであった加賀山隼人の処刑を決めた際には、討伐を命じられたという。翌年に忠興が出家した際には同時に剃髪し、宗の字を賜り宗覚と名乗り、忠興が亡くなる2年前(寛永19年、1644年)に病死した[2]

天正19年2月28日(1591年4月21日)に千利休が切腹した際には介錯人を務めた。

細川幸隆は宗覚に師事したという[3]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 『細川十部伝書[1]
  2. ^ 『綿考輯録』
  3. ^ 『丹後細川能番組』



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