山室民子とは? わかりやすく解説

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山室民子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/14 05:12 UTC 版)

やまむろ たみこ

山室 民子
読売新聞社『家庭よみうり』334号(1953年)
生誕 1900年9月18日
東京府
死没 (1981-11-14) 1981年11月14日(81歳没)
国籍 日本
出身校 東京女子大学
職業 女性視学官
家族 山室軍平(父)
山室機恵子(母)
山室善子(妹)
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山室 民子(やまむろ たみこ、1900年(明治33年)9月18日 - 1981年(昭和56年)11月14日)は、日本の社会事業家。文部省の最初の女性視学官を務めた。日本救世軍大佐補。

来歴

婦人民主クラブの中心メンバー(1946年撮影)。前列左から一人おいて、加藤シヅエ厚木たか宮本百合子佐多稲子櫛田ふき羽仁説子。後列左から一人おいて、関鑑子、藤川幸子、山室民子。

東京府出身[1]山室軍平山室機恵子の長女として生まれる。東京市女子学院で学び、東京女子大学に入学するが、病気のため南湖院に入院し2年間休学する。

東京女子大学卒業後にアメリカカリフォルニア大学に留学する。1937年(昭和12年)9月にロンドンの救世軍士官学校に入学する。1938年(昭和13年)に万国士官学校、万国本営編集部に勤める。1939年(昭和14年)に帰国する。

1945年(昭和20年)11月、山室、羽仁説子加藤シヅエ宮本百合子佐多稲子山本杉赤松常子松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始[2]。準備会が重ねられ、1946年(昭和21年)3月16日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた[2][3][4]。初代委員長には松岡が就いた[5]

救世軍士官学校や救世軍社会部、士官雑誌係などをへて、1954年(昭和29年)2月に『ときのこえ』の編集者になる。

1959年(昭和34年)に大佐補に昇進し、書記長官に任じられる。文部省初の女性視学官になる。また、国際基督教大学評議員、東京女子大学理事も務める。1962年(昭和37年)の引退後も引き続き本部付になる。墓所は多磨霊園

著書

  • 聖書ものがたり
  • 聖地ものがたり
  • 聖地に咲いた花

論文

脚注

  1. ^ 山室民子』 - コトバンク
  2. ^ a b 『航路二十年』 1967, pp. 11–14.
  3. ^ ふぇみんとは”. ふぇみん婦人民主クラブ. 2024年2月20日閲覧。
  4. ^ 婦人民主クラブ』 - コトバンク
  5. ^ 『全国組織婦人団体名簿』 1981, pp. 2–3.

参考文献




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