少弐氏への謀反 家兼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:02 UTC 版)
肥前佐賀郡の国人として古くは九州千葉氏に仕えていた旧臣だったが、室町時代後期に千葉氏に代わって肥前守護として北九州に勢力を張った御家人少弐氏の被官となった。享禄3年(1530年)、水ケ江城主・龍造寺家兼が田手畷の戦いで周防国の大内氏を破ってから少弐氏からの自立が進み戦国大名としての道を歩み始めた。天文4年(1535年)に少弐氏を裏切り、大内義隆に通じて主君・少弐資元を自害させて大内氏庇護の下に独立した。しかし、馬場頼周を中心とする少弐氏重臣達の調略により、一族の多くを殺害されて、龍造寺氏の勢力は一時的に壊滅した。
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