小栗冨治郎 (2代)とは? わかりやすく解説

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小栗冨治郎 (2代)

(小栗富治郎_(2代) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/05 03:44 UTC 版)

二代[1] 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年12月3日〈慶応3年11月8日〉[2] - 1933年昭和8年〉12月1日[3])は知多半島の中核地・半田の豪商。酒や醤油の醸造、銀行業や紡績業など多角経営を進め、貴族院多額納税者議員も務めた。

来歴

後の愛知県半田市にて[1]、小栗富一(初代・富治郎)[注釈 1]の長男として生まれる[2]。祖父の喜七は船頭として江戸-蝦夷間の物流で稼ぎ、先代の借金を完済。主人・中埜半六の番頭を務めたのち独立するとまず味醂の製造、次いで1845年(弘化2年)に酒の醸造[注釈 2]を始め財を成した[4]

1859年(安政6年)に横浜港が開港するやすぐさま2,3万両の唐糸を輸入して江戸や名古屋に販売、巨利を得る[注釈 3]。1865年(慶應元年)初代・富治郎に家督を譲り引退。

二代・富治郎は父である初代が病弱のため、1877年(明治10年)12月、十代にして家督を相続[2]。小栗家は明治20年代には主家の中埜家を超える隆盛を誇ったとされ、一族は半田で多様な事業を展開した[5]

1890年(明治23年)3月に行われた陸海軍大演習の際はその邸宅が大本営に選定され、明治天皇が宿泊した[6][注釈 4]。同年11月に第一回帝国議会が開かれると政友会愛知支部創立委員となる。家にはいつも数十人の食客があり、後に代議士となる鈴置倉次郎清水市太郎[注釈 5]もその一人であった。

1892年(明治25年)に本場と言われる千葉県野田より杜氏を招いて醤油醸造を開始。これが愛知での醤油製造の最初であり、亀甲富の名で売り出し好評を得た[4]。1893年(明治26年)6月に名古屋生命保険[7]を、1896年(明治29年)に知多紡績を設立し各々の取締役社長に就任[8]。同年設立された丸三麦酒(後のカブトビール)で取締役も務めた[9]

1897年(明治30年)4月に小栗時計製造所を開設[10]。また同年汽船2隻を購入する[注釈 6]。1898年(明治31年)1月には資本金15万円で名古屋に小栗銀行を、同年3月には尾三農工銀行を設立しそれぞれ頭取に就任した[13]。1899年には欧米視察に出発。翌1900年7月に帰還した際は、地元政財界の有力者およそ300人が出迎えた[14]。その他、知多郡農会会長、知多商業会議所副会頭なども歴任[3]

1906年(明治39年)愛知県多額納税者として補欠選挙で互選され翌年まで貴族院議員を務める[注釈 7]

栄華を誇った小栗家であったが、日露戦争後の1907年(明治40年)に生糸相場が暴落。同年5月には小栗銀行で取り付け騒ぎが発生し倒産した。これを発端として次々と事業を手放すことになり、小栗家はたちまち没落[4]。1909年(明治42年)3月、小栗銀行の預金者救済のため、彼らを株主として東洋塩業株式会社が設立される。富治郎は台湾から塩の輸入を行う同社の取締役を務めた[16]。富次郎はその後半田を離れ浜松に移り、1933年(昭和8年)12月に没す。

家族

  • 喜七(祖父)- 1805年(文化2年5月)半田の生まれ、幼名は寅吉。中埜家の船頭より身を起こして独立。味醂や酒の製造をはじめ豪商となる。1865年(慶應元年)家督を譲り1890年(明治23年)1月死去[4]
  • しけ(妻)- 1871年(明治4年10月)生まれ。高麗屋の屋号で代々尾張藩御用達を務めた油商、六代・吉田新三郎の二女[2]
  • 小栗常太郎(長男)- 1886年(明治19年)9月生まれ。米国留学後に飛行家となり、小栗飛行学校を開設した。
  • 小栗貞三郎(男)- 1891年1月生まれ。三男か。輸出業の小栗洋行代表を務めた。
  • そう(長女)- 1892年11月生まれ。
  • 浅賀ふさ(二女)- 1894年2月生まれ。米国の大学で学び、日本における医療ソーシャルワーカーの草分けとなる。
  • 栄(三女)- 1895年11月生まれ。
  • 敏(四女)- 1899年1月生まれ。


脚注

注釈

  1. ^ 喜七を初代、富一を二代富治郎と数える資料もある。
  2. ^ 中埜家より酒造株を譲り受けて開始。中埜酒造株式会社では株の譲渡があった弘化元年を創業年としており、明治維新後に「國盛」という酒名が生まれたとされる。
  3. ^ 百万の富を築いた喜七だったが、主人半六邸を訪ねる際は綿の服を着て裏口から入るなど気遣いを忘れなかったとされる[4]
  4. ^ この時明治天皇が宿泊した棟は1933年(昭和8年)に半田市内の雁宿公園に移築された。
  5. ^ 清水は後に富治郎の欧米視察に随伴した[4]
  6. ^ 「半田のまち」によれば、購入したのは日清戦争の直前で、戦中は御用船として貢献した[4]とされる。汽船は台湾、中国北部、北海道、また神戸や東京間を運航。富次郎は台湾塩の国内販売権を獲得し、その精製のため1903年(明治36年)半田製塩工場を設立した[11][12]
  7. ^ 1906年(明治39年)12月28日から[15]1907年(明治40年)10月22日まで在任した[3][15]

出典

  1. ^ a b 竹内ほか 1991, 440頁.
  2. ^ a b c d 『人事興信録』(第3版)人事興信所、1911年、を35頁。NDLJP:13004585/403 
  3. ^ a b c 衆議院、参議院 1960, 183頁.
  4. ^ a b c d e f g 『半田のまち』半田町、1937年、133-138頁。NDLJP:1110097/75 
  5. ^ 小尾堅之助 編『愛知県実業家人名録』愛知博文社、1977年10月、235-236頁。NDLJP:778974/123 
  6. ^ 『半田市誌』 文化財編、半田市、1977年10月、495-496頁。NDLJP:2991760/259 
  7. ^ 由井常彦、浅野俊光 編『日本全国諸会社役員録』 9 (明治38年)、柏書房、1988年7月、220頁。NDLJP:13095187/114 
  8. ^ 由井常彦、浅野俊光 編『日本全国諸会社役員録』 9 (明治38年)、柏書房、1988年7月、218頁。NDLJP:13095187/113 
  9. ^ 『半田市誌』 本文篇、半田市、1971年、431-435頁。NDLJP:3030434/233 
  10. ^ 半田市誌編さん委員会 編『新修半田市誌』 本文篇 /中巻、半田市、1989年11月、163頁。NDLJP:13217186/92 
  11. ^ 『衣浦港史料』 第1集、愛知県衣浦港務所、1969年、127頁。NDLJP:12068074/73 
  12. ^ 『半田市誌』 資料篇 4、半田市、1974年、61,65頁。NDLJP:2992394/34 
  13. ^ 由井常彦、浅野俊光 編『日本全国諸会社役員録』 9 (明治38年)、柏書房、1988年7月、216頁。NDLJP:13095187/112 
  14. ^ 『70年の歩み』半田商工会議所、1963年、1頁。NDLJP:2503936/12 
  15. ^ a b 貴族院事務局 1947, 16頁.
  16. ^ 大蔵省 編『明治大正財政史』 第19巻、財政経済学会、1937年、751頁。NDLJP:1447144/399 

参考文献




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