寺山修司とのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 01:40 UTC 版)
岸上は寺山修司から影響を受けつつも、やがて主として政治的理由から対立するようになる。寺山の記しているところによると、1960年の初夏、岸上は寺山を訪問し「寺山さんは(安保闘争の)デモには行かないんですか?」という質問をぶつけたという。その後まもなく、岸上は批判的な内容を含む「寺山修司論」を発表した。 寺山は岸上の死後、自殺の原因が失恋であったことや絶詠に母への追慕がうたわれていたことと、性急な政治的行動とのギャップに対して辛辣な評言を記している。岸上の没後に編纂された『岸上大作全集』には「虚無なき死、死なき虚無」と題する文章を寄せたが、そこでも「私は、リングの中央にダウンしている鼻血まみれのみにくい敗者への一瞥のような眼できみの全歌をよみかえしている。実際のところ-いい歌などただの一首もないではないか。」と書いた。
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