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大沢貞義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/20 00:05 UTC 版)

大沢 貞義
基本情報
国籍 日本
出身地 島根県
生年月日 1926年
身長
体重
168 cm
59 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手内野手外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 熊谷組

大沢 貞義(おおさわ さだよし、1926年 - )は、島根県出身の元アマチュア野球選手(投手内野手外野手)。

経歴・人物

松江商業学校から1948年立教大学に進学。投手、主力打者として活躍する。東京六大学野球リーグでは優勝には届かなかったが、1950年秋季リーグでは早大に次ぐ2位。1951年春季リーグでは13試合に登板し早慶両校との3者プレーオフに持ち込むが、敗退し3位に終わった。同季は42打数17安打、打率.405で首位打者となる。リーグ通算57試合登板、24勝19敗、156奪三振、防御率2.75。

卒業後は熊谷組に入社、エース兼右翼手として起用される。1952年都市対抗で準決勝に進むが全鐘紡に敗退[1]。この大会では殊勲選手に選出される。1955年から3年連続で世界アマチュア野球大会に出場。1956年都市対抗では監督も兼ね、根来広光東京鉄道管理局から補強)らのリリーフとしても起用され勝ち進む。しかし決勝では日本石油藤田元司に抑えられ敗退[1]。この大会では久慈賞を獲得した。同年の産業対抗では決勝で日本ビールを降し優勝[2]1957年都市対抗はエース島津四郎を擁し、決勝で日本通運堀本律雄を打ち崩し優勝した[1]。同年限りで現役引退するが、1959年第3回アジア野球選手権大会には助監督兼外野手として参加している。1960年都市対抗は監督として優勝に貢献、小野賞に選出されている[1]

脚注

  1. ^ a b c d 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ 「日本社会人野球協会会報1956」日本社会人野球協会 1957年

関連項目




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