大川錠吉
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大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日[1](1845年7月13日) - 大正15年(1926年)3月6日[1][2][3])は、明治時代から大正時代にかけての書籍商、出版者。聚栄堂と号し[1]、のちに大川屋書店となる[1]。
略歴
弘化3年(1846年)に武蔵国入間郡横沼村に生まれた[1]。幼時に父に従って江戸に出て、八代目朝倉屋久兵衛に奉公した後[1]、慶応4年(1868年)8月に独立し、深川西町において貸本業を営んだ[1]。明治2年(1869年)に浅草区三好町7番地に移った[1]。貸本業を明治27~28年(1894~1895年)まで継続しながら、並行して書籍の出版・取次・販売業を開始する[1]。大川の出版物のほとんどは求版と相版で、自ら出版したものはわずかしかない[1]。
明治25年(1892年)から明治31年(1898年)まで、東京地本彫画営業組合評議員を務めた後、明治32年(1899年)から大正元年まで同頭取を務めた。明治27年(1894年)および明治34年(1901年)には、東京書籍出版営業者組合の協議員を務め、明治35年(1902年)から大正元年まで、東京書籍商組合の評議員を務めた。明治38年(1905年)から大正10年(1921年)の間、東京地本彫画営業組合の組合長を務めた。
死後、養子の米吉が大川屋が継いだ[1]。
刊行した作品
松永瑠成『貸本問屋と貸本文化』に、初代大川屋錠吉の出版物が一覧化されている[1]。
脚注
参考文献
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