大仏切通しとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 大仏切通しの意味・解説 

大仏切通

(大仏切通し から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
大仏切通1
大仏切通2
大仏切通
所在地
地図

大仏切通(だいぶつきりどおし)は鎌倉七口のひとつで、現在の神奈川県鎌倉市長谷常盤深沢地域を結ぶ切通し道。

概要

現在は新道がトンネルを抜けており、新道北側に旧道の一部が残されているが、現在見られる姿は、実際には1879年(明治12年)から翌年にかけて開削工事されたもので、このとき5(約545メートル)の山道を3(約9メートル)切り下げて人力車が通れるようにしたと切通の鎌倉側入口にある石碑に記されている。

一般には鎌倉時代からのものだろうと言われるが、発掘調査ではかわらけ(素焼きの小皿)の小片が出土した以外には見るべきものはない。また、鎌倉時代に京などから鎌倉に来る記録では、初期にはほとんどが稲村路を通っており、後期には極楽寺坂切通を通ったと思われる文献もあり、鎌倉期にこの道が存在したことを確認することは困難である。ただし、現在の大字長谷は旧くは深沢村の一部であり、ローカルな生活道があった可能性は否定できない。

大仏切通の史料上の初出は江戸時代初期であり、1624年(元和10年)-1647年(正保4年)頃に刊行された『玉舟和尚鎌倉記』に「大仏坂(藤沢口)」がそれである。よく知られるのは1685年(貞亨2年)の『新編鎌倉志』の「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり」という記述である[1]

現在の大仏切通は鎌倉側から常盤の出口に近くなるほど切通しが深くなり、上述の1879年(明治12年)の切り下げ工事と符合するが、その後の関東大震災での倒壊などで、とても人力車が走ったとは思えない状態になっている。結果として、野趣あふれる雰囲気が存置されたとも言えるが、並行して走る新道の掘り下げとそちらへの倒壊もあり一部は通るにはかなり危険な状態である。

一部が1977年(昭和52年)8月10日、国の史跡に指定されている[2]

脚注

参考文献

  • 「巻之五 大佛切通」『新編鎌倉志』第5冊、河井恒久 等編、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、103頁。NDLJP:952770/66

関連項目

外部リンク

座標: 北緯35度19分7.6秒 東経139度31分53.5秒 / 北緯35.318778度 東経139.531528度 / 35.318778; 139.531528




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大仏切通し」の関連用語

1
大仏坂 デジタル大辞泉
100% |||||

2
12% |||||

3
12% |||||

大仏切通しのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大仏切通しのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大仏切通 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS