多賀貞能とは? わかりやすく解説

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多賀貞能

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/10 04:12 UTC 版)

 
多賀 貞能
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正15年(1587年
別名 新左衛門、新右衛門
官位 信濃守
主君 浅井長政織田信長明智光秀豊臣秀吉
氏族 多賀氏
父母 父:多賀貞隆
娘(多賀秀種室)
養子:秀種
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多賀 貞能(たが さだよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将多賀常則と同一人物説があるが、別人とされる[1]

略歴

多賀貞隆の子として生まれる。近江国高島郡を領した[2]

はじめは浅井長政に仕えていたが、のちに織田方へ寝返り[3]元亀3年(1572年)7月には小谷城攻略のため、織田家の諸将とともに虎御前山城に布陣した[4]。また、貞能には後継者となる男子がおらず、堀秀重の次男、秀種に娘を嫁がせて養子とした[2]

天正10年(1582年)の本能寺の変に際して明智光秀に与して山崎の戦いにも参戦したため、戦後に所領を没収された[2]。『 老人雑話』によれば、明智方の敗北を察し早々に戦場を離脱したため、却って褒美を受けたとされるが、和田裕弘は、堀秀政との縁故により助命されたとしている[5]

天正15年(1587年)、死去[2]

脚注

出典

  1. ^ 第14 回 多賀町立博物館 研究発表会 講演要旨集” (PDF). 多賀町立博物館 (2022年3月6日). 2022年5月30日閲覧。
  2. ^ a b c d 阿部猛西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月10日、468頁。ISBN 4404017529 
  3. ^ 谷口克広『信長・秀吉と家臣たち』学研新書、2011年8月2日、42頁。 ISBN 9784054050211 
  4. ^ 市史跡「虎御前山城」”. 長浜市 (2011年10月19日). 2022年5月30日閲覧。
  5. ^ 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書、2017年2月、ⅲ-ⅳ頁。 ISBN 9784121024213 



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