多々良浜と蒲池武久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 09:56 UTC 版)
南北朝時代は南朝方に属し、菊池武敏が足利尊氏を迎え撃った1336年(建武3年)の多々良浜の戦いで蒲池武久が嫡子の無いまま討ち死にした。武久には嫡子がおらず、その死後、蒲池氏は、懐良親王の率いる南朝方の力が衰えるまでの約20年間、領主不在の状態となり、所領は武久の娘が「女地頭」としてかろうじて守っていた。 この源久直にはじまる「嵯峨源氏の蒲池氏」と、源圓(源三圓)を祖とする「嵯峨源氏渡辺党松浦氏の蒲池氏」を、蒲池氏の時代区分から「前蒲池」という。
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