増上寺刃傷事件と切腹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 04:47 UTC 版)
延宝8年(1680年)、第4代将軍・徳川家綱の77日法要に際し、芝増上寺参詣口門の警備を命ぜられた。普段から忠勝と仲の悪かった永井尚長は出口勝手門の警備を命ぜられていたが、尚長は忠勝より上席にあるため忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとした。忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長は無視したため、忠勝はこれを恨んで脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを刺殺した(芝増上寺の刃傷事件)。この際、忠勝は遠山頼直(政亮)に拘束され、伊奈忠易の元に預けられた。 このため6月27日に忠勝は西久保の春龍寺にて切腹を命じられ、御家断絶とされた。享年26。
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