嘉例川の初見から近世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 21:09 UTC 版)
「隼人町嘉例川」の記事における「嘉例川の初見から近世」の解説
嘉例川という地名は鎌倉時代の建治2年の大隅国在庁石築地役配符に「加礼川七段内七寸<二反半同人(弥勒寺執当慶弁),二反半修理執行兼禅>」という記述が初見であり、大隅国桑西郷のうちであった。嘉例川は佳例川とも書かれた。 戦国時代になり、太閤検地の資料では豊臣秀吉の蔵入地に、加治木郷のうちとして嘉例川村が記述されている。 江戸時代は桑原郡日当山郷(外城)のうちであり、嘉例川村の石高は「天保郷帳」には727石余、「旧高旧領取調帳」では752石余、天保6年の「郡村高辻帳」には748石余と記載されている。明治2年になり襲山郷のうちとなり、明治12年には襲山郷が東西に分割され、西襲山郷のうちとなった。
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