嗣子問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 06:18 UTC 版)
在昌が出奔した翌年の永禄8年(1565年)、在富は後継者が不在のまま、8月10日死去。嗣子がないため、土御門有春の四男・福寿丸(1553年 - 1575年・13歳)を勘解由小路在高として養子に入れて相続したが、在高は天正3年(1575年)に23歳で夭折してしまう。 これを受けて同年、有春の嗣子・有脩の子である土御門久脩が16歳で勘解由小路在綱と改姓改名して、勘解由小路家を嗣ぐことになった。 しかしそれも束の間、天正5年(1577年)1月2日、久脩(在綱)の父・土御門有脩が死亡してしまう。これに伴い、唯一の嫡子である久脩改め在綱は、同年3月26日、土御門久脩へと復姓復名し、土御門家当主を嗣いだ。これは、在昌が京に呼び戻され、勘解由小路家を嗣ぐことになったためと思われる。同年閏7月12日、在昌は従五位下に叙位されている。
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