喜多院住持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 07:04 UTC 版)
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。 豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている。この年、権僧正に任ぜられた。 また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。
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