周辺国の掃討に当たる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 13:43 UTC 版)
至正27年(1367年)、御史大夫に任ぜられる。同10月、征南将軍に任ぜられ、呉禎を副将として方国珍を攻める。方国珍は部下と共に海船で逃走するが、盤峙島(浙江省舟山市定海区)で待ち構えていた廖永忠が海上から迎撃し、方国珍は12月に投降する。これにより浙東(浙江省東部)は平定される。 同年、海上から福州の陳友定を攻略するため、閩(福建省)に軍を進めた。 至正28年(1368年)正月、陳友定は2万の兵を配し、精兵をもって延平を守備していたが、湯和、廖永忠らが明州(浙江省寧波市)から水軍をもって延平に侵攻し、10日間で落城させた。陳友定は自殺を図るも未遂、応天に護送されて死刑となる。次いで大同、宣府(河北省張家口市宣化区)を攻略した。
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