原田裕とは? わかりやすく解説

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原田裕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 01:32 UTC 版)

原田 裕(はらだ ゆたか、1924年 - 2018年10月6日 [1])は、日本の編集者出版社経営者

概要

和歌山県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。1946年、戦後一期生として講談社へ入社。『キング』『講談倶楽部』に配属され、山田風太郎らの担当となる[2]

1948年出版部に移り、1953年から山岡荘八の『徳川家康』を担当しベストセラーとする(1967年にシリーズ完結)。1955年~1956年は叢書『書き下ろし探偵小説全集』(全11巻)を企画。また、当時の新書ブームもあり、1955年に、新書版のエッセイ・文芸書中心の「ミリオン・ブックス」、娯楽書中心の「ロマン・ブックス」を創刊[2]

1957年にふたたび『キング』に戻り、最後の編集長をつとめた。1958年、新雜誌『日本』の創刊編集長に(『日本』は1966年に終刊)[2]

1959年、東都書房(講談社の子会社ではなく、講談社内の別名義会社)へ移り、「日本推理小説体系」(1960年 - 1961年、全16巻)や「現代長編推理小説全集」(1961年、全16巻)、「東都ミステリー」(1961年 - 1963年、全53巻)などのミステリ叢書(今日泊亜蘭のSF長編『光の塔』もこのシリーズ内で刊行)や、日本SF第一世代の最初の長編・眉村卓「燃える傾斜」(「東都SF」としてシリーズするはずが、これ1作で終わった)などの刊行に関わった[2]

また、若手推理作家たちの親睦団体「不在クラブ」、女性推理作家の団体「霧の会」をコーディネートした。江戸川乱歩賞の予選委員も、1980年から2000年までの長きにわたって担当[2]

1963年に、講談社に戻り教科書出版に従事。のち、美術書等を刊行する講談社の子会社・第一出版センターの社長となる[2]

定年退職後、自らの出版社、出版芸術社を1988年に起す[2]。2015年に、静山社の持株会社フェニックス・ホールディングスへ譲渡。後に相談役となった。

著書

参考文献

外部リンク

脚注

  1. ^ 会報2018年11/12月号 名誉会員・原田裕氏死去|日本推理作家協会” (日本語). 日本推理作家協会. 2019年10月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 『戦後の講談社と東都書房』



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