十市皇女の被葬地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:52 UTC 版)
日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られたとあるが、赤穂という地名が奈良県内のどこにあたるかという解釈には諸説あり、いまだ定説は明らかになっていない。 新薬師寺(奈良市高畑町)の隣にある鏡神社の比売塚は、「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、ここに十市皇女が埋葬されているという説が有力である。 奈良盆地西辺の馬見丘陵東麓にある広瀬郡(奈良県北葛城郡広陵町)の「赤部」という場所に「赤穂墓」があり、これを十市皇女の墓であるとしている。 天武・持統陵、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までを含む檜隈の大内・安古とよばれる一帯があり、その安古が「赤穂」に通じることから、このあたりに十市皇女の墓を想定している説もある。 奈良県桜井市の赤尾が「赤穂」であるとし、その近辺にある鳥見山山麓古墳群に唯一ある方墳か、又は舞谷古墳群の2号墳ではないかという説もある。
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