勧修寺教豊とは? わかりやすく解説

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勧修寺教豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/28 06:19 UTC 版)

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勧修寺教豊
時代 江戸時代
生誕 慶長15年(1610年
死没 慶長20年6月22日1615年7月17日
官位 従五位上右兵衛佐
主君 後水尾天皇
氏族 藤原北家高藤流甘露寺支流勧修寺家
父母 父:勧修寺光豊、母:太田一吉の娘
養子:経広
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勧修寺 教豊(かじゅうじ のりとよ)は、江戸時代公家公卿)。

堂上家(家格は名家藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の第16代当主。

経歴

権大納言勧修寺光豊の実子。母は、飛騨守・太田一吉臼杵城主)の娘。室は無し。養子に、権大納言勧修寺経広(実父は参議坊城俊昌)。

父・光豊と第7代当主・教秀より1字ずつ取り、早くも実名()として教豊を名乗る。しかし、慶長20年(1615年)に5歳という若さで早世

官途は、右兵衛佐従五位上

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