加藤邦男 (陸軍軍人)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 加藤邦男 (陸軍軍人)の意味・解説 

加藤邦男 (陸軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/16 02:25 UTC 版)

加藤 邦男(かとう くにお、1893年明治26年)3月15日[1][2] - 1951年昭和46年)1月27日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・田能村[1]

経歴

東京府出身[1][2][3]。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][4]。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第18大隊付となる[1][4]。1922年(大正11年)12月、工兵大尉に昇進し、1925年(大正14年)2月、所沢陸軍飛行学校教官に就任[1]。同年5月、兵科航空兵に転科し航空兵大尉となる[1]

1929年(昭和4年)3月、航空兵少佐に進み、1930年(昭和5年)8月、飛行第1連隊材料廠長に就任[1]。飛行第1連隊付を経て、1934年(昭和9年)3月、陸軍航空本部員となり、1936年(昭和11年)3月、航空兵中佐に昇進[1]。同年8月、航空本部フランス駐在監督官に転じ、1939年(昭和14年)3月、航空兵大佐に進んだ[1][3]

1939年6月、陸軍航空技術研究所員に就任し、陸軍航空整備学校第2教育隊長、航空兵団兵器部長、第2航空軍兵器部長を務め、1943年(昭和18年)3月、陸軍少将に進級した[1][2][3]。同年5月に待命となり、同年6月、予備役に編入[1][2][3]。同年8月、召集され航空本部付となる[1][2][3]。同年9月、航空輸送部長に就任し、第5飛行場司令官を経て、1944年(昭和19年)5月、馬尼刺陸軍航空廠長兼第5飛行場司令官となり、同年9月に召集解除となり帰国した[1][2][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

脚注

注釈

  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』214頁では昭和45年。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、43頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』214頁。
  3. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』359頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』348、359頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「加藤邦男 (陸軍軍人)」の関連用語

加藤邦男 (陸軍軍人)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



加藤邦男 (陸軍軍人)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの加藤邦男 (陸軍軍人) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS