加藤景雲とは? わかりやすく解説

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加藤景雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/03 17:08 UTC 版)

加藤 景雲(かとう けいうん、1875年 - 1943年)は、明治時代から昭和時代初期に活躍した彫刻家である。高村光雲の弟子であり、木彫鬼才と言われた。岡倉天心会頭とした日本彫刻会を立ち上げた6人の初期メンバーの一人である[1]。近代彫刻の発展に尽力した。

生涯

1875年(明治8年)5月9日宮大工 加藤惣太郎の次男として、島根県安来市荒島町に生まれる。本名は喜次郎。小学校を卒業すると家業の宮大工を習い、建築彫刻、寺社彫刻を学ぶ。

18歳の時八幡町の欄間に龍を彫って評判を取る。

1895年(明治28年)米原雲海の勧めで上京し、高村光雲のもとで5年間修行する。光雲塾における木彫手本の模写は常に満点であったと伝えられる。

のちに山崎朝雲と共同で自炊生活を行った。

1900年(明治33年)東京彫工会展審査員となる。同年、パリ万国博覧会に『農夫』を出品。1907年(明治40年)岡倉天心の指導のもと、日本で最初の本格的彫刻団体「日本彫刻会」を米原雲海、山崎朝雲平櫛田中森鳳聲、滝澤天友とともに立ち上げ、1908年(明治41年)に第一回展を行う。

1932年昭和7年)高野山壇上伽藍金堂「阿閦如来」を高村光雲とともに制作。

1943年(昭和18年)5月9日死去。

エピソード

景雲は文学や歴史など学問にも精通しており、歴史や神話を題材に作品を作ることが多かった。そして修行をしてる間、師匠である高村光雲の息子、高村光太郎に学問の知識を教えていたという。

参考文献

脚注




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