加藤景雲
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加藤 景雲(かとう けいうん、1875年 - 1943年)は、明治時代から昭和時代初期に活躍した彫刻家である。高村光雲の弟子であり、木彫の鬼才と言われた。岡倉天心を会頭とした日本彫刻会を立ち上げた6人の初期メンバーの一人である[1]。近代彫刻の発展に尽力した。
生涯
1875年(明治8年)5月9日、宮大工 加藤惣太郎の次男として、島根県安来市荒島町に生まれる。本名は喜次郎。小学校を卒業すると家業の宮大工を習い、建築彫刻、寺社彫刻を学ぶ。
18歳の時八幡町の欄間に龍を彫って評判を取る。
1895年(明治28年)米原雲海の勧めで上京し、高村光雲のもとで5年間修行する。光雲塾における木彫手本の模写は常に満点であったと伝えられる。
のちに山崎朝雲と共同で自炊生活を行った。
1900年(明治33年)東京彫工会展審査員となる。同年、パリ万国博覧会に『農夫』を出品。1907年(明治40年)岡倉天心の指導のもと、日本で最初の本格的彫刻団体「日本彫刻会」を米原雲海、山崎朝雲、平櫛田中、森鳳聲、滝澤天友とともに立ち上げ、1908年(明治41年)に第一回展を行う。
1932年(昭和7年)高野山壇上伽藍金堂「阿閦如来」を高村光雲とともに制作。
1943年(昭和18年)5月9日死去。
エピソード
景雲は文学や歴史など学問にも精通しており、歴史や神話を題材に作品を作ることが多かった。そして修行をしてる間、師匠である高村光雲の息子、高村光太郎に学問の知識を教えていたという。
参考文献
- 『岡倉天心と日本彫刻会 : 日本木彫の「伝統」と「革新」 : 小平市平櫛田中彫刻美術館・井原市立田中美術館共同企画展』小平市平櫛田中彫刻美術館、2010年9月
- 『島根県立美術館開館記念展Ⅲ 島根の美術』島根県立美術館、1999年、ASIN B0DHZ648T1
脚注
- ^ “『岡倉天心と日本彫刻会‐日本木彫の「伝統」と「革新」-』|展覧会情報検索 アートコモンズ|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO”. www.nact.jp. 2025年2月19日閲覧。
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