光蓮寺 (長野市)とは? わかりやすく解説

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光蓮寺 (長野市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/29 04:26 UTC 版)

光蓮寺
所在地 長野県長野市西尾張部517番地 
位置 北緯36度38分56.85秒 東経138度13分53.55秒 / 北緯36.6491250度 東経138.2315417度 / 36.6491250; 138.2315417座標: 北緯36度38分56.85秒 東経138度13分53.55秒 / 北緯36.6491250度 東経138.2315417度 / 36.6491250; 138.2315417
山号 柳原山
宗旨 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 寛喜3年(1231年)
法人番号 2100005000421
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光蓮寺(こうれんじ)は長野県長野市西尾張部にある真宗大谷派の寺院。寺号は柳原山。

歴史

開基は信濃源氏井上氏の井上頼光で、建久4年(1193年)比叡山延暦寺で得度し、のち下総国磯部に移り住んで親鸞の弟子となった[1]。了禅と名乗り、寛喜3年(1231年)信濃国水内郡高田西久保に勝善寺(久保勝善寺)を創建した。鎌倉時代には久保勝善寺と西厳寺(長野市)、普願寺中俣勝善寺(須坂市)、願生寺(新潟県妙高市)、本誓寺(同上越市)からなる「磯部6か寺」を形成した。

8世了慶は永享11年(1439年)本願寺に参詣し、蓮如自筆奥書の聖教を授かり、現在も光蓮寺に残されている。その後、蓮如は宝徳元年(1449年)と応仁2年(1468年)に勝善寺を訪れている。

11世了順のとき、川中島の戦いの難を逃れ、現在の南西の地に移った[1]。了順は石山合戦に際し中俣の勝善寺教了と共に参戦するが戦死[1]

12世行心のとき、その功を賞せられて教如から蓮如の一字を賜り、光蓮寺と改称した[1]

寛文10年(1670年)と享保19年(1734年)火災にあい、寛保2年(1742年)現在地に再建された[1]

なお、南長池の蓮證寺はもともと光蓮寺の塔頭であった。宝暦11年(1761年)境内に建立されたが、明治12年(1879年)5世法剣のとき、南長池へ移った。

境内・宝物

本堂には本尊の阿弥陀如来を安置し、境内の太子堂には寛政9年(1797年)江戸より勧請した運慶作と伝わる聖徳太子像を安置する。像は世に「経読みの太子」と言われる[1]

寺宝は先述の蓮如直筆の奥書のほか、『住吉物語絵巻写本』など数多い。寺紋は寛政11年(1799年)、19世了恵が浅草別院輪番となったとき、水戸徳川家から葵御紋を拝領した。

脚注

  1. ^ a b c d e f 『長野市誌 第8巻』東京法令出版、1997年10月16日、243,244頁。 

参考文献




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