傅皇后 (漢哀帝)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 傅皇后 (漢哀帝)の意味・解説 

傅皇后 (漢哀帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/27 14:49 UTC 版)

傅皇后(ふこうごう、? - 紀元前1年)は、前漢哀帝皇后傅昭儀の従弟傅晏の娘。

傅皇后
前漢の皇后
別称号 孝哀傅皇后

死去 元寿2年(前1年)8月
長安
配偶者 哀帝
父親 傅晏
テンプレートを表示

生涯

哀帝が即位前の定陶王であったとき、傅昭儀の意向により、親族の傅皇后が娶られた。哀帝が成帝の皇太子になると、傅皇后が皇太子妃となった[1]

綏和2年(紀元前7年)に成帝が亡くなり哀帝が即位すると、傅皇后が皇后に立てられ、父の傅晏が孔郷侯となった[2]

哀帝は董賢とその妹の董昭儀を寵愛し、皇后をかえりみなかった。郎中の桓譚は傅晏に陳皇后の例を引用し、皇后に慎重に行動するよう勧めた。皇后はついに廃れなかった[3]

元寿元年(前2年)に後ろ盾の傅昭儀が死去した。元寿2年(前1年)6月に哀帝が死去すると、王莽王政君が実権を握った。7月に王莽が王政君に出させた詔により、傅皇后は桂宮に退去させられ、傅晏は免ぜられ妻子と合浦郡に流された。8月に王莽は再び王政君に詔を出させ、傅皇后は庶人に貶められ、陵園に就かされた。同日中に傅皇后は自殺した[2]

脚注

  1. ^ 『漢書』外戚伝下
  2. ^ a b 『漢書』哀帝紀、外戚恩沢侯表、外戚伝下
  3. ^ 『後漢書』桓譚伝

史料

参考文献

  • 小竹武夫訳『漢書8 : 列伝V』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1998年5月8日。ISBN 978-4-480-08408-8 
  • 東晋次『王莽 : 儒家の理想に憑かれた男』白帝社〈白帝社アジア選書3〉、2003年11月4日。 ISBN 978-4-89174-635-3 
  • 渡邉義浩『王莽 : 改革者の孤独』大修館書店〈あじあブックス74〉、2012年12月20日。 ISBN 978-4-469-23269-1 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  傅皇后 (漢哀帝)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「傅皇后 (漢哀帝)」の関連用語

1
52% |||||

2
52% |||||

3
4% |||||

傅皇后 (漢哀帝)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



傅皇后 (漢哀帝)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの傅皇后 (漢哀帝) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS