保義可汗の求婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
元和3年(808年)、長寿天親可汗以来、4代の可汗に嫁いできた咸安公主が亡くなったため、保義可汗(在位:808年 - 821年)は唐に新たな公主を求めた。しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鸊鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。これによって唐の辺軍は戒厳令を敷き、両国に緊張が走った。憲宗(在位:806年 - 820年)は宗正少卿の李孝誠と太常博士の殷侑を回鶻に赴かせ、回鶻を説得させたが、保義可汗は求婚をあきらめず、元和9年(814年)にまた合達干(アルプ・タルカン)らを送って求婚させた。長慶元年(821年)、穆宗(在位:821年 - 824年)の代になってようやく許しが出たが、保義可汗はこの世を去ってしまう。そこで穆宗は皇妹である太和公主を次の崇徳可汗(在位:821年 - 824年)に出嫁することにし、太和公主が新たな回鶻可敦(ウイグル・カトゥン:皇后)となった。
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