佐々木飛吉
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佐々木 飛吉
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生誕 | 1869年2月25日![]() |
死没 | 1953年5月23日(84歳没) |
国籍 | ![]() |
別名 | Operikun(アイヌ語名) |
民族 | アイヌ民族 |
佐々木 飛吉[要読み仮名](明治2年1月15日(1869年2月25日) - 昭和28年(1953年)5月23日[1])は、明治から昭和にかけて北海道静内郡静内町に居住したアイヌ。アイヌ協会の創立メンバーで、アイヌ文化伝承者であった[2]。
生涯
東静内アザミの沢出身で[3]、同地に住んだ[1]アイヌ名はOperikun[4]、オペリクン[1]、オペレクン・テクンアレ[5]、ペイレン[6]。op[7]は海でカジキマグロを獲るのに使うホコであり、それを使うのが上手と言うこと、「ホコ使い上手」を意味するオッㇷ゚エリクンが転訛したものという[8][9]。
アイヌ語に優れ、パルンクル(雄弁家)であった[9]。静内地方でも著名な首長、長老であり、戦前・戦後を通し多くの著名人が訪れた。葛野辰次郎の母方の親族(祖母の養父[4]もしくは再従兄弟[7])であり、神々の祈り言葉について葛野は飛吉のものを手本としていたという[10]。首長としては、地味良く、日高昆布や鮭の産地でもある山林原野約2000haを所有し、その土地は日高山脈を越え十勝平野に至るまでに及んだ。しかし和人に金を騙し取られ、その借金のために財産を失い、失意の内に死去した[5]。一方で養鶏、養豚、狢の繁殖、馬の改良増産に従事し、奪われた田畑を全て買い戻したのみならず、新たに払い下げを受けてアイヌでも有数の地主となったとの記述もある[3]。
家族
- 8世祖・Nociwno ekasi
- 7世祖・Sirkantukan ekasi
- 6世祖・Ohumtura ekasi
- 高祖父・Ciwrikin ekasi(和人)
- 曾祖父・Riktuye ekasi
- 祖父・Sonkosan ekasi
- 父・Sapareuk[7]
- 子・佐々木太郎[5]
- 孫娘(太郎の子)・岡本頼子[2]
脚注
- ^ a b c 『エカシとフチ』編集委員会 編『エカシとフチ : 北の島に生きたひとびとの記録 別冊』札幌テレビ放送、1983年12月、31-32頁 。
- ^ a b 田村すず子「北方言語・文化研究会成果報告(19)1987年4月-1987年7月」『早稲田大学語学教育研究所紀要』第36巻、早稲田大学語学教育研究所、1988年3月、92-120頁。 該当箇所は101頁で、聞き書きをした佐々木の孫娘である岡本頼子を紹介する文中に記されている。
- ^ a b 江賀寅三 著、梅木孝昭 編『アイヌ伝道者の生涯 : 江賀寅三遺稿』北海道出版企画センター、1986年10月、208-212頁 。
- ^ a b 北海道教育庁社会教育部文化課 編『アイヌ民俗文化財調査報告書 昭和58年度 (アイヌ民俗調査 3 静内地方)』(レポート)北海道教育委員会、1984年3月、43-44頁 。
- ^ a b c 菅原幸助「サラブレッドに生きる」『現代のアイヌ : 民族移動のロマン』現文社、1966年、137-144頁 。
- ^ 『エカシとフチ』編集委員会 編『エカシとフチ : 北の島に生きたひとびとの記録 〔本編〕』札幌テレビ放送、1983年12月、79頁 。
- ^ a b c 大島稔「人間観」『平成3年度 アイヌ民俗文化財調査報告書 アイヌ民俗調査XI (道南東部地方)』、北海道教育委員会、36-55頁、1992年3月 。
- ^ 葛野辰次郎『神の語り神互いに話しあう』オホーツク文化資料館、1983年7月、40頁 。
- ^ a b アイヌ民族の現在と未来を考える会「アイヌ語よ、力強くはばたけ」『明日を創るアイヌ民族』未来社、1988年3月、153-155頁 。 該当箇所は葛野辰次郎からの聞き書き。
- ^ 葛野辰次郎「神々への祈り」『アイヌ文化』第7巻、アイヌ無形文化伝承保存会、1982年3月、5-12頁。
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