中村一族の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 02:55 UTC 版)
「岩屋城 (美作国)」の記事における「中村一族の支配」の解説
その後、小瀬・中村・大河原・後藤氏など赤松氏譜代が交代で城代となっていたが、永正17年(1520年)に美作守護代中村則久が前年に赤松義村に対して反逆した浦上村宗に同調して岩屋城を奪取し籠城。これに激怒した赤松義村は小寺則職に兵を与え、中村討伐を命じたが浦上家臣宇喜多能家の助けを得た天険の岩屋城はこれを寄せ付けず、200日余り籠城した挙句に浦上村宗と連携して小寺則職らを返り討ちにし、中村則久が以後も岩屋城に在城した。 だが、浦上村宗の死後は尼子氏の影響力を傘に台頭する大河原貞尚の勢力に押され中村氏は衰微、天文13年(1544年)には直接美作に侵攻し始めていた尼子氏の攻勢に耐え切れずついに尼子国久に降伏。中村氏は変わらず城主を続ける事を赦されたものの、尼子氏より目付けとして芦田秀家を送り込まれる事となった。 やがて尼子氏も衰退し始めると芦田は独立の野心を持つようになり、永禄11年(1568年)にはついに城主中村則治を暗殺して岩屋城を奪取した。
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