中川寺成身院建立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:33 UTC 版)
興福寺では、法相教学を学びながら密教を研修する専門道場の存在は許されず、実範は、興福寺の学場を離脱し、しばらく忍辱山円成寺に隠棲した。『元亨釈書』には、初めに忍辱山に住み、花を摘んで中川山に至り、地の勝形を見て官に申して伽藍を建てたとある。中川山(現在の奈良市中ノ川)の地は、興福寺から行くと、忍辱山の円成寺に至る道と、弥勒信仰の聖地として栄えた笠置寺に至る道との分岐点にある。実範は、別所建立には相応しい場所ととらえ、ここに金剛界の成身会になぞらえ、成身院を建立し、真言・法相・天台の三宗兼学の寺とした。いわゆる中川寺である。実範は、1112年(天永3年)頃から30年近くにわたりこの地に在住し、中川寺の造営と、教学の発展に力を注いだと考えられる。宮中貴族とのつながりは濃厚であったことが認められる。
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