上納銀延滞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/07 08:18 UTC 版)
『犯科帳』や『御仕置伺集』によれば、上納銀を延滞したのは長崎袋町在住の為替商人・松田金兵衛で、宝暦3年(1753年)3月15日に長崎で手鎖の上、町預となっている。金兵衛は数年来「豊後肥後肥前御年貢米江戸上納銀為替」の請け負いをしていたが、その上納銀を他の商売に転用して、しかもそれで損失を出して上納銀を延滞するようになった。 金兵衛は、宝暦元年(1751年)6月に長崎滞在中の勘定組頭・早川庄次郎に、8月と翌年3月には長崎会所吟味役見習の森弥次郎から、上納銀について尋問された。しかし、延滞については触れられなかったため、そのままにしておいたところ、宝暦3年の時点では延滞額は1300貫目になった。 延滞が発覚した際、金兵衛は上納銀の件については松田善蔵という者に全て委任しており、そのこと自体も不届きであるが、私欲によることではないとみなされた。金兵衛は押込処分に、松田善蔵は軽追放となった。さらに未納分を全額返済するように命じられた金兵衛は、差し出した町屋敷沽券の銀高で一部を補い、残りは宝暦5年(1755年)から5年賦で上納することになった。 そして金兵衛を取り調べた早川庄次郎と森弥次郎が、金兵衛の下代の文内と伊兵衛から音物(贈物)を受け取り、上納銀延滞について不問に付すよう頼まれたことも発覚した。
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