上与那原寛和とは? わかりやすく解説

上与那原寛和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/05 08:41 UTC 版)

獲得メダル
日本
陸上競技
パラリンピック
2008 北京 マラソンT52
2020 東京 男子400mT52
2020 東京 男子1500mT52
世界パラ陸上競技選手権大会
2015 ドーハ 男子400mT52
2015 ドーハ 男子1500mT52
2025 ニューデリー 男子400mT52
2025 ニューデリー 男子1500mT52
2017 ロンドン 男子1500mT52
アジアパラ競技大会
2018 ジャカルタ 男子800mT51/52
2014 仁川 男子100mT52
2014 仁川 男子400mT52
2022 杭州 男子400mT52

上与那原 寛和上與那原 寛和[1]、うえよなばる ひろかず、 1971年3月22日[2] - )は、沖縄県沖縄市出身の車いすレース選手。

経歴

建設会社に務めていた2000年にバイクに乗って帰宅していた途中に乗用車と接触し跳ね飛ばされ首を骨折し頸椎を損傷、足が動かなくなり、手にも麻痺が残った[3]

その後は知人に誘われてリハビリとして車いすマラソンに誘われて参加。2003年には初の大会となる、ぎのわん車いすマラソン大会に出場。2006年には大分国際車いすマラソンのハーフマラソン部門で優勝を果たし、大会新記録を樹立。2007年の長野車いすマラソン大会のハーフマラソンでは日本記録を更新し、同年の大分国際車いすマラソン大会のフルマラソンでも当時の日本記録を樹立した。2008年の長野車いすマラソン大会ではハーフマラソンの日本記録をさらに更新し、日本パラリンピック委員会より北京パラリンピックへの出場が内定した[4]

北京オリンピックでは200m、400m、800m、マラソンに出場しており、200m、400mで6位、800mでは自己ベストを5秒記録する走りだったものの4位でメダルには届かなかった(この種目の金メダリストは伊藤智也、銀メダリストは高田稔浩でともに日本の選手であった)。しかし最後の種目となったマラソンでは40キロ過ぎよりスパートをかけて1時間40分10秒の世界記録を3分半ほど更新する記録であったが、オーストリアトーマス・ガイアシュペヘラーにわずか3秒及ばずに銀メダルを獲得した[5]。帰国後には仲井眞弘多沖縄県知事より県民栄誉賞を授与された。沖縄県民名誉賞が授与されたのは1999年沖縄尚学高等学校第71回選抜高等学校野球大会で沖縄県勢初となる優勝を果たして送られて以来の2度目であった[6]

リオデジャネイロパラリンピックでは100m、400m、1500mに出場、100mでは予選6位で予選敗退、400mでは予選1組を4位で決勝に通過、決勝は6位に終わった、1500mでは4位になった。

出典





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上与那原寛和」の関連用語

上与那原寛和のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上与那原寛和のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上与那原寛和 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS