三郎左衛門死後
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それから100年後の寛延2年(1749年)三郎左衛門の磔にされた桟敷場に子孫によって供養の地蔵尊が建てられたが、いつの頃か度重なる水害にあい流失したものと思われる。 寛政12年(1800年)別の場所に地元の人々に祀られた如意輪観音を地蔵の見替わりに、毎年命日に供養が行われ今日に至る。人々には「みょうり様」と呼ばれ親しまれている。 さらに、三郎左衛門の死後200年の明治13年(1880年)金沢村の村民達が宮城(きゅうじょう)上等裁判所に提訴した。村民の誠意と真実に心を動かされた裁判所によって、金沢村の土地であるという勝訴判決が下った。 昭和25年(1950年)青柳神社境内に頌徳碑、三郎左衛門の墓のある泉長寺裏の墓地に供養塔を、金沢村の人々によって奉納される。
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