ラフム朝の王の廃位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:53 UTC 版)
602年頃、ホスロー2世はサーサーン朝の陪臣であったアル=ヒーラ(英語版)のラフム朝(英語版)の王アル=ヌウマーン3世(英語版)を処刑した。この理由はわかっていない。アラブの文法学者アブー・オバイダ(824年頃没)の伝える逸話ではアル=ヌウマーン3世がホスロー2世の娘との結婚を拒否し、ペルシア人女性を侮辱したためであるという。他にホスロー2世がかつてバフラーム・チョービンに地位を追われた時に、アル=ヌウマーン3世が亡命受け入れを拒否したためであるとも、ホスロー2世のお気に入りの詩人をアル=ヌウマーン3世が殺害してしまったためだともいわれる。この結果、緩衝国家ラフム朝は消滅し、サーサーン朝の中央政府は西側の砂漠方面の防御をラフム朝から引き継いだ。これは最終的に、ホスロー2世の死後10年もたたないうちに発生したムスリムのカリフによる下イラク侵略と征服を容易にすることなった。
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