ヨハン・エルンスト_(ザクセン=コーブルク公)とは? わかりやすく解説

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ヨハン・エルンスト (ザクセン=コーブルク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 16:17 UTC 版)

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ヨハン・エルンスト
Johann Ernst
ザクセン=コーブルク
在位 1541年 - 1553年

出生 (1521-05-10) 1521年5月10日
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領コーブルク
死去 (1553-02-08) 1553年2月8日(31歳没)
神聖ローマ帝国
ザクセン公領、コーブルク
配偶者 カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 ザクセン選帝侯ヨハン
母親 マルガレーテ・フォン・アンハルト=ケーテン
宗教 キリスト教ルター派
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ザクセン=コーブルク公ヨハン・エルンスト(ドイツ語:Johann Ernst, Herzog von Sachsen-Coburg, 1521年5月10日 - 1553年2月8日)は、ザクセン=コーブルク公(在位:1541年 - 1553年)。

生涯

ヨハン・エルンストはザクセン選帝侯ヨハンとその2番目の妃マルガレーテ・フォン・アンハルト=ケーテン(アンハルト=ケーテン侯ヴァルデマール6世の娘)の息子である。ヨハン・エルンストは神学者で改革主義者のシュパラティン英語版に教育を受けた。異母兄のヨハン・フリードリヒ1528年からヨハン・エルンストの後見人となり、1532年からはヨハン・エルンストをザクセン選帝侯領の統治に参加させた。

1541年、トルガウにおいて母方の伯父アンハルト=ケーテン侯ヴォルフガングの仲介により、ヴェッティン家フランケン地方の領地を、ヨハン・エルンストが支配する領地として分割した。ヨハン・エルンストはコーブルクケーニヒスベルク英語版ノイシュタットゾンネベルクノイハウス英語版ローダッハヒルトブルクハウゼン英語版ヘルトブルク英語版アイスフェルト英語版ファイルスドルフ英語版シャルカウ英語版およびウンマーシュタット英語版を支配した。さらに、兄より一時金と年金を受け取った。ヨハン・エルンストはフェステ・コーブルク英語版があまり居心地が良くないと感じ、1542年にエーレンブルク城の建設を開始した。同年2月12日にはトルガウでブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン公フィリップ1世の娘カタリーナと結婚したが、子供は生まれなかった。ヨハン・エルンストの時代にシュタインハイト英語版で金の採掘が始まった。

1547年ミュールベルクの戦いの後に皇帝カール5世が異母兄ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒに対して行った懲罰行為の影響を、ヨハン・エルンストは受けなかった。ヨハン・エルンストは引き続きコーブルクを支配し続けたが、ケーニヒスベルクはカール5世に没収された。

1553年にヨハン・エルンストが死去した後、コーブルクはほんの数ヶ月前に捕囚の身から解放された異母兄ヨハン・フリードリヒに戻され、翌1554年にヨハン・フリードリヒが死去した後はその3人の息子がエルネスティン家の領地を共同統治した。

参考文献




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