ヤン・ブリューゲル (父)とは? わかりやすく解説

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ヤン・ブリューゲル (父)

(ヤン・ブリューゲル1世 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 14:10 UTC 版)

ヤン・ブリューゲル (父)
Jan Brueghel de Oude
ピーテル・パウル・ルーベンスによるブリューゲルとその家族の肖像画
誕生日 1568年
出生地 ブラバント公国ブリュッセル
死没年 1625年1月13日
死没地 ブラバント公国アントウェルペン
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ヤン・ブリューゲル作、『花』(1606/7)

ヤン・ブリューゲル (父)(Jan Brueghel de Oude, 1568年1625年1月13日)はブラバント公国 (現在のベルギー)の画家。

イッソスの戦い.

父親は画家のピーテル・ブリューゲルであり、兄弟のピーテル、息子のヤンとアンブロシウスも画家となった。「ビロードのブリューゲル」(ビロードを思わせる色調から)、「花のブリューゲル」(好んで取り上げた)等とも呼ばれる

生涯

父親はヤンが1歳の時に亡くなり、母親も1578年に亡くなったため、兄のピーテルと姉妹のマリアと共に、画家であった祖母 Mayken Verhulst(彼女の夫は同じく画家のピーテル・クック・ファン・アールスト)に引き取られる。画家であった祖母は二人の孫に絵画を教えたと思われる。一家は1578年以降にアントウェルペンに移住。ギリス・ファン・コーニンクスロー等の画家の下で学ぶ。1589年から7年間イタリアに滞在し、ミラノでは後に彼のパトロンとなるミラノ大司教フェデリコ・ポロメオのために働いた。1597年にアムステルダムに戻り、1601年には聖ルカ組合のメンバーとなる。1610年には南部ネーデルラント総督であったアルブレヒト・フォン・エスターライヒイサベル・クララ・エウヘニア宮廷画家に任命された。

ヤンは始め、花や果物といったものを描いていたが、後に風景画で評判を得るようになる。兄のピーテルと比べると、父親の模倣ではなく独自のスタイルを築いた。初期の作品は聖書から取った主題に、特に森を描いた風景画を組み合わせたものが多く、そのスタイルには森林画家のギリス・ファン・コーニンクスローの影響が見られる。後期になると、純粋な風景画や街の情景、静物画を描くようになっていった。

彼の作品は他の画家と共同制作が多く、そういった作品では背景を受け持った。特に友人でもあったピーテル・パウル・ルーベンスとの共同制作が知られている。

彼はアントウェルペンに工房を持ち、その地でコレラにより死去した。

主な作品

ピーテル・パウル・ルーベンスとの共同制作

ギャラリー

脚注

  1. ^ 『よくわかる名画の見方』 2013, p. 22.

参考文献

  • 池上英洋、川口清香、荒井咲紀『よくわかる名画の見方 読み解くための100のキーワード』PHPエディターズ・グループ、2013年。ISBN 978-4-569-81024-9 

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