マージー_(モニター)とは? わかりやすく解説

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マージー (モニター)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/18 04:49 UTC 版)

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艦歴
発注
起工 1912年8月24日
進水 1913年9月30日
就役
退役
その後 1921年にスクラップとして売却
除籍
性能諸元
排水量 1,260トン
全長 266.75 ft (81.3 m)
全幅 49 ft (14.9 m)
吃水 5.6 ft (1.7 m)
機関
最大速 12ノット (22.2 km/h)
乗員 140名
兵装 6インチ砲2門
4.7インチ砲2門
3ポンド砲4門
3インチ対空砲1門

マージー (HMS Mersey) はイギリス海軍モニター。ハンバー級。元はブラジル海軍向けにヴィッカース社で建造され、Madeiraと命名されていた。

艦歴

1912年8月24日起工。1913年9月30日進水。1914年2月に竣工したが、ブラジルの財政悪化により同型艦2隻と共に売りに出され、第一次世界大戦勃発直前に敵国の手に渡らないようにするためイギリスが購入した。

1914年のYser川の戦いのときはベルギー沖からドイツ軍を砲撃した。

1915年4月、「マージー」は同型艦「セヴァーン」と共にアフリカ東部へ派遣されることになった。そこではドイツの巡洋艦「ケーニヒスベルク」がドイツ領東アフリカルフィジ川デルタに潜んでおり、それを攻撃するため吃水の浅い艦艇が必要であったためである。2隻のモニターは4月28日に曳航されてマルタを出発し、スエズ運河経由で6月3日にルフィジ川デルタの沖に浮かぶマフィア島に到着した。7月6日、2隻のモニターは多数の小型艦艇を伴ってデルタ内へと入っていった。途中川岸に潜むドイツ軍から攻撃を受け、小艦艇に被害が生じたがモニターには損害は無く、河口と「ケーニヒスベルク」のほぼ中間の位置で砲撃を開始した。最初は着弾観測に当たる航空機との連絡がうまく取れず、モニターの砲撃は不正確なものとなった。一方ドイツ側の砲撃は正確であり、「マージー」が被弾し前部の6インチ砲が破壊された。それから少ししてようやく着弾観測機との連絡が取れ、「セヴァーン」が「ケーニヒスベルク」に命中弾を与えた。しかし、着弾観測機がエンジンの故障で引き返さざるをえなくなったため、モニターも撤収した。7月11日、2隻のモニターはデルタ内に入り攻撃を行った。「マージー」は再び被弾し退却したが、「セヴァーン」が「ケーニヒスベルク」の破壊に成功した。この後も2隻のモニターはしばらくアフリカ東部に留まった。

1918年3月から4月にかけて「マージー」と「セヴァーン」はアフリカ東部を離れアレクサンドリアに移動した。

1918年12月から1919年3月まで、ガラツィオーストリア=ハンガリー帝国との休戦の監視に当たった。

1921年にスクラップとして売却。

参考文献

  • Ian Buxton, Big Gun Monitors : Design, Construction and Operations 1914-1945, Seaforth Publishing, 2008, ISBN 978-1-84415-719-8
  • Bernard Edwards, Salvo! Classic Naval Gun Actions, Naval Institute Press, 1995, ISBN 1-55750-796-1



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