マフムード・シャー1世 (マールワー・スルターン朝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/21 06:39 UTC 版)
マフムード・シャー1世 | |
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マールワー・スルターン朝君主 | |
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マフムード・シャーの墓廟
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在位 | 1436年 - 1469年 |
全名 | マフムード・ハーン・ハルジー |
死去 | 1469年 |
子女 | ナーシルッディーン・シャー |
王朝 | マールワー・スルターン朝(ハルジー朝) |
マフムード・シャー1世(Mahmud Shah, 生年不詳 - 1469年)は、インド、マールワー・スルターン朝の君主(在位:1436年 - 1469年)。即位前はマフムード・ハーン・ハルジー(Mahmud Khan Khalji)といった。彼は王朝の中で最も強力な君主であり、争いに生きた君主でもあった[1]。
生涯
1436年、宰相であったマフムード・ハーン・ハルジーは君主ムハンマド・シャーを毒殺し、王座を奪った[2]。ここにゴール朝に代わるハルジー朝が成立した[3]。
マフムード・シャーはその治世、グジャラート・スルターン朝、デカン地方のバフマニー朝、オリッサのガジャパティ朝、ゴンドワナといったヒンドゥー諸王朝と争った[4]。また、彼はデリー・スルターン朝(サイイド朝)の内政にも関与し、数名の貴族とも連絡を取り合い、彼らはデリーを制圧するように要請した[5]。
マフムード・シャーは南部ラージプーターナーを制圧することに力を入れ、メーワール王国と激しく争った[6]。メーワール王クンバーはマフムード・シャーと敵対する人物を保護し、マールワーの君主にこの人物をつけようとした。これに対して、マフムード・シャーはクンバーの兄モーカルに保護を与え、しきりに内部の反乱を起こそうとした[7]。 あるとき、マフムード・シャーの軍勢はアジュメールにまで進撃し、そこに地方長官を任命したが、これは追い返された[8]。
また、マフムード・シャーはフーシャング・シャーからの宗教的融和策を捨て、メーワール王クンバーやヒンドゥー諸国との戦いの間、ヒンドゥー寺院を多く破壊した[9]。ただし、これらの行動の多くは戦争中に行われたことであって、ヒンドゥー教の全面的な破壊政策の一部ととることはできない[10]。
1469年、マフムード・シャーは死亡し、息子のナーシルッディーン・シャーが王位を継承した。
脚注
参考文献
- フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年。
- サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年。
関連項目
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