マテウス・フォン・コリンとは? わかりやすく解説

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マテウス・フォン・コリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/21 17:07 UTC 版)

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マテウス・カジミール・フォン・コリン (Matthäus Kasimir von Collin 1779年3月4日 ウィーン1824年11月23日ペンツィング郊外エベンダ)は、オーストリア作家詩人、教育者。今日ではシューベルト歌曲作品を通して知られている。

生涯

マテウスは医師のハインリヒ・ヨーゼフ・コリン(1731-1784)と妻エリーザベト・エートレ・フォン・フィヒトルの息子として生まれた。作家のハインリヒ・ヨーゼフ・フォン・コリン英語版ベートーヴェン序曲コリオラン』の元となった戯曲の作者)は兄弟。 1801年法学博士号を取得、1808年にはクラクフ美学哲学史教授となり、最終的にはウィーンにおける経済専攻の発起人となった。

彼は若いころから文筆活動にも熱心で、ペーター・フォン・ヴィンターのための戯曲『オシアン』などを執筆し、1814年から「一般文学新聞」(Allgemeine Literatur-Zeitung)を刊行、1818年には「ウィーン文学年鑑」(Wiener Jahrbücher der Literatur)を創刊した。これらの創刊者として彼はウィーン・ロマン主義文学の世界において非常に影響力のある俳優でもあった。彼のオーストリア史に取材したドラマはグリルパルツァーの歴史悲劇の先駆と見なされている。

1815年から彼はナポレオンの息子であるパルマ公(1818年からはライヒシュタット公)を教育した。 コリンは死後、ペンツィング墓地に、後ヒーツィング墓地に埋葬された。

作品

  • 光と愛(シューベルトの歌曲D352)
  • こびと(シューベルトの歌曲D771)
  • 悲しみ(シューベルトの歌曲D772)
  • 夜と夢(シューベルトの歌曲D827)
  • ベラスの戦いBelas Krieg mit dem Vater, 1808年)
  • 好戦的なフリードリヒの死Der Tod Friedrichs des Streitbaren, 1813年)

文学

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