プルーセンへの宣教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/31 19:44 UTC 版)
「プラハのアダルベルト」の記事における「プルーセンへの宣教」の解説
977年に、既にアダルベルトはポーランド北東部のプロシア(プルーセン)に住むプルーセン人への宣教を思い描いていたらしい。彼はハンガリーのキリスト教化の後、教皇によってプロシアへ派遣された。ポーランド公ボレスワフは、彼に配下の兵士を同行させた。アダルベルトと一行(アダルベルトの異母弟ラディムを含む)は、バルト海沿いにプロシアへ入った。 宣教の手段として、彼らは聖なるオークの木を切った。彼らはザクセンや多くの地における布教で同様のことを既に行ってきた。なぜなら、異教徒は木の中に住む精霊を崇拝しており、精霊の力を恐れていたのである。これは、どんな超自然の力もキリスト教徒から守られないことを、異教徒に示すための行動であった。カシの木立から立ち去れというプルーセン人の警告を彼らは聞き入れなかったため、アダルベルトはその冒涜行為のためプルーセン人に捕らえられて殺害された。殉教した場所は、バルト海沿岸のトルソ(現在のエルブロンク)近郊、またはフィッシュハウゼン(現在のカリーニングラード州プリモルスク)近郊とされている。
※この「プルーセンへの宣教」の解説は、「プラハのアダルベルト」の解説の一部です。
「プルーセンへの宣教」を含む「プラハのアダルベルト」の記事については、「プラハのアダルベルト」の概要を参照ください。
- プルーセンへの宣教のページへのリンク