フロレンツァ・ミハイとは? わかりやすく解説

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フロレンツァ・ミハイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/13 00:36 UTC 版)

フロレンツァ・ミハイ
Florenţa Mihai
バージニア・ルジッチとフロレンツァ・ミハイ(右)
基本情報
フルネーム Florenţa Mihai
国籍  ルーマニア
出身地 同・ブカレスト
生年月日 (1955-09-02) 1955年9月2日
没年月日 (2015-10-14) 2015年10月14日(60歳没)
死没地 同・ブカレスト
身長 165cm
利き手
4大大会最高成績・シングルス
全仏 準優勝(1977)
全英 2回戦(1977)
全米 3回戦(1977)
4大大会最高成績・ダブルス
全仏 ベスト8(1976・78)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全仏 準優勝(1977)

フロレンツァ・ミハイFlorenţa Mihai, 1955年9月2日 - 2015年10月14日)は、ルーマニアの元女子プロテニス選手。1977年全仏オープン女子シングルス準優勝者。キャリアを通じてシングルスの優勝はなく、決勝進出もこの全仏オープン1度だけであったが、この活躍でルーマニアの女子テニス界の先駆者になった人である。1978年全仏オープン女子シングルス優勝者になったバージニア・ルジッチは、ミハイと同じ年のライバルであった。

来歴

1975年にプロ入りし、この年から女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)のルーマニア代表選手になった。翌1976年全仏オープンで準決勝に勝ち進んだが、この時はレナータ・トマノワチェコスロバキア)に 5-7, 6-7 で敗れている。この大会ではミハイとバージニア・ルジッチが準決勝に進出し、ルーマニアの女子選手が2人ベスト4に入った。1977年全仏オープンで、フロレンツァ・ミハイは女子シングルスと混合ダブルスの2部門で決勝に勝ち上がり、ルーマニア出身の女子テニス選手として最初の4大大会決勝進出を果たす。当時の全仏オープンは、64名の出場選手による6回戦制で行われ、現在とは1ラウンド小さい規模のトーナメントであった。ミハイは女子シングルス決勝で第1シードのミマ・ヤウソベッツユーゴスラビア)に 2-6, 7-6, 1-6 のフルセットで敗れ、イワン・モリナ(コロンビア)とペアを組んだ混合ダブルスでもジョン・マッケンローメアリー・カリロ(ともにアメリカ)に 6-7, 3-6 で敗れて、2部門とも準優勝に終わった。全仏準優勝の年、1977年全米オープンで3回戦進出があったが、これが全仏オープン以外でのミハイの4大大会自己最高成績である。

1980年ウィンブルドンで1回戦敗退に終わった後、ミハイは3年間女子ツアー大会から遠ざかったが、その間1981年のフェデレーション・カップに参加した。その後1983年1984年の2年間、女子ツアー大会のトーナメントに出場している。

2015年10月14日ブカレストにて60歳で亡くなった[1]

脚注

  1. ^ Fed Cup - Obituary: Florenta Mihai”. Fed Cup. ITF Inc. (2015年10月19日). 2015年10月19日閲覧。

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